集中講義終わる

2005-12-24 samedi

京大での集中講義四日間がようやく終わる。
三日目は『北北西に進路を取れ』、四日目は『ゴーストバスターズ』.
ハリウッド映画をトラウマ、抑圧、代理表象、転移などにからめて論じるというスタイルはこれまでの映画論と同じだけれど、今回の集中講義では「同期」、「閾下知覚」、「暗黙知」、「無意識的言語活動」といったことに軸足を置いてみた。
講義を始める前には、そんな論件に触れる気はなかったのだが、初日の朝に、寝床の中で「アナグラム」の話を急に思いついて、どろなわでそれを資料に付け加えたところから話の筋道がどんどん変わってしまった。
すでにアナグラムについては何度か話したことがある。
それが識閾下でのある種の言語活動であることはとりあえずわかっている。
それが、コミュニケーションにおいて死活的に重要であることまでは分かっていたのである。
だが、時間意識の形成とアナグラムをつなぐ理路がよくわからなかったのである。
それがぼんやりわかってきた。
アナグラムは「閾下の言語活動」であり、そこでは時間も空間も意識次元とはまったく違う仕方で展開している。
この識閾を適切にキープする能力が人間の人間性をどうやら最終的に担保している。
そんな気がしてきたのである。
識閾を設定し保持する力こそが、実は人間の知性の核心なのではないか。
識閾というのは、フロイトの術語を使って言えば「無意識の部屋」と「意識の部屋」を隔てる、あの番人のいる「扉」のことである。
この「扉」の管理がしっかりしてはじめて人間は「論理」とか「時間」とか「自我」とか「他者」といったものを維持することができる。
この扉の開け閉めが緩んで、無意識の心的過程がダダ漏れになってしまうと、時間も論理も自我も、みんなまとめて吹っ飛んでしまう。
無意識と時間意識のかかわりについて考えるきっかけになったのは先日春日先生にうかがった統合失調症の「幻聴」の話である。
幻聴というのは、自分の思考が声になって聴こえるという病症である。
幻の声が自分の思考を「先回り」して言い当ててしまう。
本を読んでいると、本のまだ読んでいないところを幻の声が読み進んで筋をばらしてしまう。
これを患者は「宇宙人からの指令が聴こえる」とか「脳内にチップを埋め込まれた」といった定型的な作話によって「合理化」しようとする。
でも、よく考えたら、「そんなこと」は誰にも起こる、まるで当たり前の出来事なのである。
アナグラムの例から知られるように、私たちは瞬間的に一望のうちに視野にはいるすべての視覚情報を取り込んで処理することができる。
本を開いた瞬間に見開き二頁分の視覚情報を入力するくらいのことは朝飯前である。
だから、私たちは実は頁を開いた瞬間に二頁分「もう読み終えている」。
しかし、私たちは「すでに読んでしまった文」を「まだ読んでいない」ことにして、一行ずつ本を読む。
なぜ瞬間的に入力された情報を段階的に取り出すような手間ひまをかけるのか。
私にはその理由がまだよくわからない。
よくわからないままに、直感的な物言いを許してもらえれば、たぶん、それは「手間ひまをかける」ということが「情報を適切に処理すること」よりも人間にとって重要だからである。
「手間ひまをかける」というのは言い換えると「時間を可視化する」ということである。
おそらく、無時間的に入力された情報を「ほぐす」という工程を通じて人間的「時間」は生成する。
一瞬で入力された文字情報をあえてシーケンシャル処理することは、知性機能の「拡大」ではなく、機能の「制限」である。
私たちの知性はおそらく「見えているものを『見えていないことにする』」という仕方で「能力を制御する」ことで機能している。
それに対して、統合失調の人たちはおそらく「見えているものが無時間的にすべて見えてしまう」のである。
かれらは「〈超〉能力が制御できない」状態になっている。
発想の転換が必要なのだ。
私たちは精神病というものを知性の機能が停滞している病態だと考えている。
人間の認識能力が制御されずに暴走している状態が統合失調症なのである。
私にはそんな気がする。
私たちの中では実際に無数の声が輻輳し、無数の視覚イメージが乱舞し、私たちの理解を絶した数理的秩序が支配している。
その中の「ひとつの声」だけを選択に自分の声として聴き取り、「ひとつの視野」だけを自分の視線に同定し、理解を絶した秩序の理解可能な一断片だけに思念を限定できる節度を「正気」と言うのではあるまいか。
この「理解を絶した数理的秩序」を私たちの貧しい語彙をもって語ろうとすると、それは「宇宙人の声」とか「CIAの監視」といったチープでシンプルな物語に還元されてしまう。
だから、それについてはあえて語らないというのが知性の節度なのではないか。
ウィトゲンシュタインが言ったように、「語り得ないものについては沈黙すること」が知性のおそらくは生命線なのである。
アナグラムという現象は人間の言語活動のうち、少なくとも音韻選択は識閾下でも活発に活動していることを示している。
アナグラムについて書かれた詩学書が一冊も存在しないという事実は、アナグラムが人間の知性が統御すべき領域の出来事ではないということを意味しているのではないか。
おそらくそのことを古代人は知っていたのである。
というようなことを考えて映画を見る。
映画の中には無数のでたらめな表象が飛び交っている。
とくにハリウッド・バカ映画の場合、映画を中枢的に統御している「作者」はもう存在しない。
フィルムメーカーたちが映画作りにかかわる動機はきわめて多様である。
あるものは金を儲けるために、あるものは政治的メッセージを伝えるために、あるものは宗教的確信を告白するために、あるものはテクニックを誇示するために、あるものは懺悔のために、あるものはふざけ散らして、あるものは疚しさを抱えながら・・・それぞれがてんでかってな仕方で映画の現場に参加している。
そこにどのような意味でも「秩序」というようなものが打ち立てられるはずがない。
しかし、それらの娯楽映画を分析的に見ると、すべてのファクターがある種の「数理的秩序」に類するものに従って整然と配列されていることがわかる。
いったい「誰」がその秩序を用意して、どうやって数百人数千人のスタッフ、キャストをその「意」に従わせたのか?
私には説明ができない。
たぶん誰にも説明できないだろう。
おそらく、ある種の「同期」がそこに生成したのである。
最終日は池上先生ご夫妻と三宅先生がお見えになる。
京大の講義を聴きにおいでになったのである。
お忙しい先生方に長時間教室にお座り頂くのは申し訳なくて、「いいから京都観光に行って下さい」と懇願したのであるが、ぜんぜん聞き入れられずに、教室の最後部に鎮座されて、にこにこ笑いながら授業を聴いておられた。
講義が無事に終わり、四日間おつきあい頂いた学生院生諸君カンキくんミギタくんらに別れを告げ、杉本先生にご挨拶をして、京大を後にする。
今回は、池上先生のための慰労の集まりと恒例年末「三宅先生のカルマ落とし」の儀礼も兼ねているのであるというか、それが本来の目的であって、私の集中講義はその「前座」なのである。
祇園ホテルに荷物を放り込んで、三宅先生の奥様も加わって五人で祇園の「花吉兆」に繰り出す。
「おおお、これが京都だぜい(きっと)」という感じのお店である。
私のような人間には乗り超え不能のハードルの高さのお店であるけれども、三宅先生のような粋人とご一緒であると、どんなところでもどんどん入れてしまうのでまことにありがたいことである。
蟹、すっぽん、ぶり、大トロ、柿なます、牡蠣ご飯など続々と出てくる料理をひたすらむさぼり食い、お酒をぐいぐいのんで、池上先生、三宅先生と歓談しているうちに、さすがに四日間の疲れが「どっと」出てきて、午後8時に激しい睡魔に襲われ、まぶたが半分下りてくる。
そのまま半ば意識不明の状態でよろよろとホテルに戻り、池上先生に手ずから治療して頂いているうちにあまりの気持ちのよさに本格的に意識が遠のき、這うようにして部屋にもどって爆睡。
寝たこと寝たこと。
9時間とんでもない寝相でベッドを転げ回って眠る。
2005年最後の「大仕事」が終わったので、全身がほとびてしまったらしい。
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