無意識のしごと

2005-12-20 mardi

京大での集中講義第一日目。
京大での集中講義は去年はじめてお招き頂いたもので、そのときは「超・身体論」というものを講じた。
光岡先生に一日おいでいただいて(守さんも、野上さんもヴォランティアで来てくださった)、站椿の実習付きという豪華メニューであった。
そのせいで、レポートはほとんどが「光岡先生ショック」について書かれたものであった。
今回は映画論。
映画を見て、あれこれ能書きを垂れていればとりあえずよろしいわけであるので、まことに楽な仕事である。
すでに過去に名古屋大学、鹿児島大学と二度集中講義でやったネタであり、その後『映画の構造分析』に書いた。
そう聴くと、「なんだ。また同じ話か。進歩のない野郎だ」と思われる方がいるかもしれない。
だが、それは短見というものである。
私は自慢じゃないけど「飽きる」ことに関しては人後に落ちない「スーパー飽きっぽい人間」である。
毎日ルーティンを繰り返していることを自慢しているのに話が違うじゃないかと言うかたもおられるかもしれない。
勘違いしてはいけない。
私がルーティンを繰り返しているのは、それが「変化」を検出する上でもっとも効果的な方法だと信じているからである。
毎日違うことをしていると、「同じ人間が目先を変えただけで同工異曲を演じている」のか、「人間そのものが変わっているのか」がわからない。
しかるに、毎日同じことを繰り返していると、「同じ人間が同じことをしているのか」「違う人間が同じことをしているのか」が一目でわかる。
私は「自分に飽きる」のであって、「自分がしていることに飽きる」のではない。
そこのところをご理解頂きたい。
自分が日ごとに微妙に別人になるのであれば、外形的に「同じこと」であっても、その意味は微妙に変化する。
私はその変化を玩味したい。
それゆえ、「同じこと」を執拗なまでに繰り返すのである。
映画論は毎回同じネタである。
しかるに、そのネタを論じる私自身の視点や視野は微妙に変化している(といいのだが)。
初日は「アナグラム」と『エイリアン』をつなげるという荒技を試みた。
バルトの「鈍い意味」といわれるのは、ポランニーのいう「暗黙知の次元」における「意味」ではないか。
そして、ソシュールのアナグラム研究が顧みられることなく久しいのは、それがめざした「暗黙の修辞学」を語るだけの学術的語彙が1910年代には存在しなかったからではないのか。
というような、「落としどころ」のない話をぶつけてみる。
帰り道に養老孟司先生ご推奨のラマチャンドランの『脳の中の幽霊、ふたたび』を読んでいたら、いま話してきたばかりのことにかかわるエピソードが出てきてびっくりする。
脳の中には意識にのぼる事象と、意識に前景化しない事象がある。
例えば、隣に座っている人と話をしながら、無意識的に車の運転をすることは誰にでもできる。
しかし、その逆に運転に意識的な注意を向けて、無意識的に会話をすることは誰にもできない。
つまり、意味のある言語使用に関する計算は意識の介在を必要とするが、運転に要する計算は意識の介在を必要としないのである。
私が今日やったのは、「語義的に一貫性のある言語使用ではない種類の言語使用」というものがあって、その計算には意識の介在が必要ではないのではないか、という仮説の提示である。
語義的に一貫性のある言語を語る場合には、たしかに意識の介在が必要であるだろう。
けれども、そのメッセージが「相手に届くかどうか」というような遂行的課題は、語義レベルでは解決できない。
メタ・コミュニケーションレベルでの言語使用がかかわるのは、「音の響き」や、「倍音」や、「音韻の快不快」の選択であり、それはどちらかというと無意識的になされる「運転」にも似ている。
昨日、『弱法師』の音韻について書いたけれど、この音韻選択を、作者である観世元雅が意識的にやっていたように私には思われない。
音韻の選択はおそらく無意識的になされている。
しかし、謡曲の「美的感動」には語義レベルよりむしろ、この無意識的レベルにおける音韻選択にかかわっているように私には思われるのである。
この話の続きはまた明日京大で。
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