文学の世界性とは何か

2005-12-15 jeudi

毎日新聞の「この一年・文芸」という回顧記事の中で、松浦寿輝と川村湊が今年一年の文学作品の棚下ろしをしている中に、例によって村上春樹が批判されていた。

川村 村上春樹さんの短編集(『東京奇譚集』)はやはり、うまいですね。
松浦 短編集という器の洗練のきわみを示している。でも、これはマスターキーのような文学だと思った。どの錠前も開くから、世界中の人を引きつける。しかし、日本近代文学の記憶の厚みがなく、不意にどこからともなくやってきた小説という感じ。
川村 インドの大学院生たちも、違和感がない、と言っていた。サリンジャー以降のアメリカの都会派小説の流れの中にあるんでしょうね。前の短編集『神の子どもたちはみな踊る』には謎めいたところを作っていたが、今回はそういうところはほとんどない。
松浦 言葉にはローカルな土地に根ざしたしがらみがあるはずなのに、村上春樹さんの文章には土地も血も匂わない。いやらしさと甘美さとがないまぜになったようなしがらみですよね。それがスパっと切れていて、ちょっと詐欺にあったような気がする。うまいのは確かだが、文学ってそういうものなのか。(毎日新聞、12月12日)

「詐欺」というのは奇しくも蓮實重彦が村上文学を評したときの措辞と同一である。
かりにも一人の作家の作物を名指して「詐欺」と呼ぶのは、その文学的営為を全否定すると同時に、その読者たちをも「詐欺に騙された愚者」に類別しているに等しい評語である。
私は村上春樹の愛読者であるので、そのような評語に接して平静な気持ちではいられない。
「どうして村上春樹は文芸批評家からこれほど憎まれるのか?」
それについて少し思うところを書く。

「世界中の人を惹きつけ」、「インドの大学院生たち」からも「違和感がない」と言われるのは、その文学の世界性の指標であると私は思っている。
そして、日本文学史の中でそのような世界性を獲得した作家はまれである。
折しも同じ作家の『海辺のカフカ』は12月1日にニューヨーク・タイムスの選ぶ「今年の十冊」のひとつに選ばれた。
十冊はフィクション、ノンフィクション各五冊である。
「パワフルで自信に満ちた」作家による「上品で夢のある小説」と評された『海辺のカフカ』がその年に出版された英語で読める小説の年間ベスト5に選されたことは、日本人として言祝ぐべき慶事だと私は思う。
しかし、批評家たちはそれを慶賀するどころか、その事実をむしろ村上文学の欠点として論っているように私には思われた。
「ローカルな土地に根ざしたしがらみ」に絡め取られることは、それほど文学にとって死活的な条件なのだろうか。
「私は日本人以外の読者を惹きつけることを望まない」とか「異国人の大学院生に『違和感がない』などと言われたくない」と思っている作家がいるのだろうか。
私の知見は狭隘であるから、あるいは、そのような排外主義的な物書きもいるのかも知れない。
たしかに、ウェストファリア条約以来、地政学上の方便で引かれた国境線の「こちら」と「あちら」では「土地や血の匂い」方がいくぶんか違うというのは事実だろう。
だが、その「違い」に固執することと、行政上の方便で引かれた「県境」の「こちら」と「あちら」での差違にもこだわりを示ことや、「自分の身内」と「よそもの」の差違にこだわることの間にはどのような質的差違があるのだろうか。
例えば、次のような会話をあなたはまじめに読む気になるだろうか?

A でも、これはマスターキーのような文学だと思った。どの錠前も開くから、東京中の人を引きつける。しかし、世田谷近代文学の記憶の厚みがなく、不意にどこからともなくやってきた小説という感じ。
B 目黒区の大学院生たちも、違和感がない、と言っていた。

奇妙な会話だ。
しかし、批評家たちがしゃべっているのは構造的には「そういうこと」である。
なぜ、「世田谷近代文学の記憶の厚み」はジョークになるのに、「日本近代文学の厚み」はジョークにならないのか?
そのような問いを自らに向けることは批評家の重要な仕事だろうと私は思う。
リービ英雄は「日本ふうの私小説の骨法を身につけた」こと、「二つの言語の間で揺れる自分を感動的に描いた」ことを二人から絶賛されている。
ここでリービ英雄が賞賛されているのは、彼の文学に世界性があるという理由からではない。「日本的であろうとしている」から、あるいは「日本的であろうとして、日本的になりきれない」からである。
私はリービ英雄自身がこのような賛辞に納得するかどうかわからない。
おそらくあまり喜ばないのではないかと思う。
もし私がフランス語で小説を書いて、フランスの批評家に「フランスふうの心理小説の骨法を身につけた」とか「二つの言語の間で揺れる自分を感動的に描いた」ことをほめられても、あまりいい気分にはならないだろうと思う。
何国人が書いたのかというような外形的条件を超えて、作品そのものが文学として「読むに耐える」のか「耐えない」のか、私なら「それだけを判断して欲しい」と思うだろう(作家じゃないからわからないけど)。
この作家は「病身なのに、よく健常者の身体感覚を書いた」とか「貧乏な育ちなのに、上流階級の描写に巧みである」とか「不幸な生い立ちなのに、幸福な家庭を活写した」とかいうことを批評家たちは「文学的ポイント」としてカウントするのだろうか?
私が改めて言うまでもないことだが、「誰」が書いたのかということは作品評価の一次的な判断基準にはかかわらない。
作品は作品そのものとして評価しなければならない。
作家の最大の野心がもしあるとすれば、それは「この作家の人種は何か?」とか「母国語は何語か?」とか「宗教は何か?」とか「政治的信条は何か?」といった外形的な情報が与えられない場合でもなおその作品が多くの読者に愛され、繰り返し読まれるということである。
私はそう考えている。
ある作家について、彼がそこに絡め取られていたはずの信仰の制約や民族誌的偏見やイデオロギー的限界を論じることがあるとしても、それは「それにもかかわらず世界性を獲得できたこと」の理由について考察するためであって、その逆ではない。
もし、村上春樹と「ローカルなしがらみ」の間に生産的な批評的論件があるとすれば、「どのようにして村上春樹はローカルなしがらみから自己解放し、世界性を獲得しえたのか?」をこそ問うべきではあるまいか?
村上春樹が無国籍的な書き手であることを目指したのはおそらく事実だろう。
だが、「無国籍的である」ということと「世界的である」ということのあいだには千里の逕庭がある。
この「千里の逕庭」の解明になぜ批評家たちはその知的リソースを投じないのだろう。
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