生き延びる力

2005-12-09 vendredi

「今年最悪の二週間」もあとわずか。
疲労でぼちぼち足腰が立たなくなってきた。
月曜からレギュラーの授業と会議に加えて取材が4件、お稽古が二回、ゼミ面接35人、ラジオ出演が一回。
ああ、疲れた。
ゼミ面接がいちばん体力消耗した。
面接者トータル83人。一人10分平均として14時間。
次々とやってくるその全員と面談を行い、その知的リソースとポテンシャルについて査定するという作業は、はためには気楽に見えるかもしれないけれど(けらけら笑ってばかりいるから)、83人相手にそのつどの話題で「けらけら笑う」ためには、相手が変わるたびに83通りのモード変換を行っているのである。
マニュアルの車でワインディングロードを疾走しているとクラッチを踏む足とシフトする手が疲れるように、モード変換疲労というものがある。
でも、総文の二年生の30%ほどにまとめてインタビューしたので、本学の20歳の学生たちの「傾向と対策」についてはかなり潤沢な情報がゲットできた。
毎年、面接した学生については5段階評価で点数をつけている。
実際には5段階ではとても差別化できないので、5.00から1.00まで3桁の点数をつけるのである。
採点基準を明らかにすると、
私が重視するのは、「コミュニケーション感度」である。
こちらのモード変換にどれくらいすばやく反応するか、その反応速度でだいたい点数が決まる。
私の出す質問や脱線する無駄話の内容だけでなく、こちらの話し声のピッチやトーンや姿勢やテンションの変化といったシグナルを「どう読んだか」ということを見るのである。
コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、つねづね申し上げているように「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)であるので、「こだわらない・よく笑う・いじけない」という構えを私は高く評価する。
これは別に私の趣味でやっていることではなくて、この構えは生物の個体としての「生存能力の高さ」に相関するからである。
私は限りある教育的リソースを彼女たちに一定期間集中的に投じるわけである。
そのために要求する条件がだから、「どんな状況もなんとか生き延びることのできる能力」であることはハインラインの『宇宙の戦士』の新兵の選別条件と変わらない。
新聞、雑誌、ラジオなどで問われたテーマははいずれも「現代の家庭、学校はどうして『こんなに』なってしまったのか? この先、どうやって日本社会を再建したらよろしいのか?」という問いにかかわるものであった。
原因についてはいくつか思い当たることもあり、ブログや本に書いてもいるが、どう対処すべきかについて私に妙案があるわけではない。
基本的な認識として私はこれらの日本を蝕む構造的な不調の原因は「平和ボケ」だと考えている。
戦後60年間の静穏な平和の中で日本人は「動物園の動物」のピットフォールにはまりこんだ。
それは「生き延びるためにどうすべきか」という生物にとってもっとも喫緊な問いを自らに向ける必要がない、というある意味では「ありがたい」状況が長期にわたって続くことがもたらした病である。
「明日も今日と同じように平和が続く」という条件を丸飲みにして、危険に対する緊張感を失った生物は「生き物」として脆弱になる。
これは避けがたい。
緊張感の欠如がもたらす脆弱さの端的な徴候は「視野狭窄」である。
言い方を換えれば「未知なるものに対する想像力」の欠如である。
自分自身の足下が崩れるようなシステム・クラッシュの可能性をつねに勘定に入れる習慣を失った生物は、パニックに際会したときに生き延びることができない。
「パニック」というのは、「手持ちの判断基準が使い物にならなくなる」という事態のことである。
何も判断基準がなくても、生物は生き延びるためには判断しなければならない。
この矛盾に耐える力をどう育成するか。
むずかしい宿題である。
とりあえず、ひとつだけわかっていることがある。
それはどんな場合でも、とりわけ危機的状況であればあるほど、「他者からの支援」をとりつける能力の有無が生き延びる可能性に深く関与するということである。
他者からの支援をとりつけるための最良のアプローチは何か?
たぶん、ほとんどのひとは驚かれるだろうけれど、それは「ディセンシー」である。
「強い個体」とは「礼儀正しい個体」である。
この理路は、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。
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