オダジマ先生が「初期不良」についてこちらでコメントしている。
オダジマ先生はつねにわずかな露頭的予兆から時代の地殻変動を予知する。
私はこの冗談めかした「技術立国」に対する皮肉を重く受け止める必要があると思う。
先日、私は電力会社の社員と話す機会があったが、その際に「ウチダ先生は原子力発電についてどう思われますか?」と質問されて次のように答えた。
おっしゃるとおり、原子力発電はテクノロジーとしてはある程度の安定性を確保しえたのではないかと思う。
しかし、現代日本の技術者はその人的資質については、過去二十年間ほど、右肩下がりに質的低下をきたしており、『マシンは壊れていないが、マシンを操作する人間が壊れる』というかたちでのシステム・クラッシュの可能性は増大傾向にあるように思われる。
原子力発電所で災害が起きた場合には、その構造と統御を熟知している現場の人間が指揮系統の中枢にいて、責任をもって最適な処置を判断すべきであるが、これまでの原発事故の事例を鑑みるに、『現場の人間』たちはまっさきに現場を放棄して逃亡するか、あるいはそこで何が起きたかを隠蔽しようとするか、あるいはそこで起きたことの責任をほかに転嫁しようとするか、いずれかの行動をとっている。
『すべての責任は私が取る』というしかたで身を挺して現場処理できるような技術者を組織的に育成する制度的基盤は現代日本の家庭教育にも学校教育の中にはない。これは教育現場の人間として断言できる(いばって断言するようなことではないが)。
例外的にK電力の企業内にのみそのような倫理性の高い職業人が育成されているということもありえないことではないが、それついてのエヴィンデンスが示されない限り、危機管理体制が万全でなければ、桁外れの災厄をもたらすようなテクノロジーが瀰漫することに私は原則として反対である。
ということを申し上げる。
問題は技術ではなく、技術者の「エートス」にある。
日本近代の技術立国は、法的規制が要請する最低限の仕様を超えるレベルの精度や安全性を製品に賦与することに「誇り」をもつ技術者たちの「気構え」に領導されて可能になった。
本学の建築物のうち、さきの震災でびくともしなかったのは昭和初年に建築された建物である。
70年代に某ゼネコンが設計施工した建物はよれよれに歪んでしまった(私はいまジャッキアップして歪みを直したその「よれよれ」ビルの中で執務している)。
もちろんゼネコンの作った建物も建築基準法にはかなっていた。
だが、「60年に一度の震災」に耐えるほどの強度はなかった。
震災後、設計図を見比べてみたら、昭和初年にヴォーリズが設計した建物は地下の基礎が建築基準法の要求する数値の3倍の深さに達していた。
「見えないところ」に、建築後60年後の「顔をあわせる機会もないクライアント」のために、十分な気配りをすること。
そのような「強い想像力」をもちうることを「クラフトマンシップ」と言うのだと私は思う。
震災以前、本学に来てこの校舎を値踏みしたS和総研の調査員はこの建物を「ゼロ査定」した。
よれよれのビルを建てたゼネコンの社員やこの総研の調査員に顕著なのは「技術者のエートス」というものに対する敬意の欠如である。
クラフトマンシップというのは、本来「コスト」や「四半期決算」や「株価」とはかかわりのない次元のものである。
むしろ、それに対立するものである。
いま連日新聞を賑わしているのは、この「技術者のエートス」が「金勘定」の世界にまみれ、むしろその風下に立っている浅ましい姿である。
私の苦言に対して、さきの電力会社の社員は、「いや、いまは技術者が手を抜かないように、事務屋がマニュアルを片手にして『ちゃんとやれ』と監督しているから大丈夫です」という回答を寄せた。
私はこの回答に一驚を喫した。
同じような話を少し前に某メーカーの話をインサイダーから聴いたことがある。
研究所員が非常識な行動をして新聞記事になったことのあるこの研究所では、技術者が暴走しないように、良識ある社会人である事務屋が「監視」しているのだそうである。
ほんらい、技術屋と事務屋の対立関係というのは、技術屋が採算を度外視してできるだけ質の高いものを作ろうとし、それに対して、事務屋が「それではコストが合わない」と言って質の切り下げを画策するというかたちで展開するのが「常道」である。
それが逆転している。
もし、技術屋が事務屋の御意にかなうように、すすんで法的規制「以下」のことをする傾向があるというのがほんとうなら(耐震強度偽装事件を見ると、どうもほんとうらしい)、それは戦後日本の繁栄を支えてきた「技術者のエートス」というものが死滅しつつあるということである。
そのような国に明日はあるのだろうか?
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(2005-12-07 10:58)