未来の未知性について

2005-12-06 mardi

関西電力のウェブ配信の広報誌 Insight の取材。
Insight では3年ほど前に短期連載を一度したことがあり、そのご縁で、若手の政治学者、経済学者と鼎談をしたこともある。
今回はインタビューでお題は「学び」について。
「学び」について、という主題でインタビューされるのは、これでこの一月のあいだに三回目、似たような題で講演も二回したから、急に「教育問題専門家」になったような気分である。
『知に蔵』の「まえがき」に書いたように、「雑学」と「教養」は違う、「雑学」は無時間モデルで、「教養」は時間的現象であるという話をする。
途中から時間論になってしまう。
これは土曜日にしゃべってばかりの新ネタで、まだ「身がゆるい」からアイディアがずるずると出てくる。
どうもすべての問題の根源は「時間の未知性」の本質的な豊穣性をひとびとが見落としていることにあるのではないか・・・というようなことをお話しする。
例えば、「出会い」というのは、「会うべき場所で、会うべき時に、会うべき人と」出会うというかたちで成就する。
このように関与するファクターの多いイベントを「主体」は現時的与件に基づいて統御することができない。
このイベントが成就するために必要な要素のほとんどが不確定だからである。
ここである本質的な転倒が行われる。
すなわち、「出会いがすでに成就したときの私」を「第一次的主体」に措定して、現時の私を「過去の私」として遠景にしりぞけるのである。
すると、ちょうど「リールが糸を巻き取るように」、「針の穴を通した糸を引き出すように」、一直線に、一瞬の遅滞もなく、まっすぐに会うべき人との出会いのポイントへ向かう「過去の私」のさまが望見せられる。
つまり、出会った後になって、「まさにこの人に会うべくまっすぐに歩んできた私」というものが事後的に造形せらるるのである。
というようなことを書くと、「でも、どうやってその『未来の私』を想定するんですか? 未来の自分の姿を想像するのって、やっぱり『現在の私』でしょ? 例えば、『ロックスターになりたい』というようなことを念じている『現時の私』が『スターになった未来の私』を想像すれば、そのとおりになるということなら、それって、結局『現在』が『未来』を支配している・・・ということになりませんか?」というような疑問を抱かれる方もおられるであろう。
ご懸念には及ばない。
「ロックスターになりたい」と念じている私が「ロックスターになった私」を作り出すのではない。
そのようなことは起こらない。
ロックスターになるような人は、はなっから、そのように宿命づけられているからである。
そういうひとは「ロックスターになりたい」なんてアバウトなことは念じたりはしないのである。
そうではなくて、「スターになったら住む家の間取り」とか「サインの練習」とか「交友関係の整理とか(「ヤマダなんかオレが有名になったらすぐに借金しに来そうだから、いまのうちに切っとこ」)のような微細にして具体的なことを子どものころからずっと考えているのである。
だから、インタビュアーに「いつごろからロックスターになりたいと思ってました?」と訊かれると、「あれはうちの裏の神社の夏祭りに三波春夫さんが来て『東京五輪音頭』を歌ったときのことでした・・・その瞬間、びりびりと電撃が走り・・・」というような話をするのであるが、それだって子どもの頃に「ロックスターになってインタビューされたときに、『いつごろからロックスターになりたいと思っていましたか?』という質問にどう答えようか」何百回も想像してきて、とりあえず思いついた100通りくらいの答えのうちのひとつにすぎないのである。
私たちは「願望Aが実現したあと」になってはじめて「願望Aをしていた過去の私」というものを事後的に「認知」する。
実は、「願望A」以外にも「願望B」、「願望C」・・・とほとんど無限の願望が私のなかには潜在的に存在していたのであるが、実現した願望についてのみ、私たちは選択的にそのようなものを願望していた「過去の私」を思い出すのである。
だから、「出会うべきときに、出会うべき場所で、出会うべき人」と出会ったというのは、別に大事件でもなんでもなくて、実は「ただの偶然」なのである。
この「ロックスター君」にしても、「作家」になっていても、「漫画家」になっていても、「ビジネスマン」なっていても、「そのようになるべく粛々と歩んできた自分」というものを「そのようなもの」になった後に、自在に事後的に構築することができるのである。
彼がそれを偶然だと思わないのは、それが潜在的「願望」に含まれていたからである。
潜在的願望と現実が合致した人間は、そこにあたかも宿命に導かれてたどりついたような「錯覚」を抱くことになる。
そう、「錯覚」なのである。
そして、「錯覚」であるにもかかわらず、「錯覚できる人間」と「できない人間」のあいだには千里の径庭がよこたわっている。
私たちは無数の「願望」を潜在的に抱いており、そのそれぞれについて「願望が実現した場合の細部」について想像をめぐらせて、そのための準備を今すぐに始めることができる。
そして、実際にわが身にどんなことが起きるか、そのほとんど99%は自力ではどうにもならない。
繰り返し申し上げるが、自分の手で未来を切り開けるということはない。
どれほど才能があって、どれほど努力をしても、それがまったく結実しないと嘆く人間がいる一方で、まるで才能もなく、ろくに努力もしていないけれど、どうも「いいこと続き」で困ったもんだとげらげら笑っている人間がいる。
その差は、自分の将来の「こうなったらいいな状態」について「どれだけ多くの可能性」を列挙できたか、その数に比例する。
当然ながら、100種類の願望を抱いていた人間は、1種類の願望しか抱いていない人間よりも、「願望達成比率」が100倍高い。
おおかたの人は誤解しているが、願望達成の可能性は、本質的なところでは努力とも才能とも幸運とも関係がなく、自分の未来についての開放度の関数なのである。
それは「未来を切り開く」という表現からはきわめて遠い態度である。
未来の未知性に敬意を抱くものはいずれ「宿命」に出会う。
未来を既知の図面に従わせようとするものは決して「宿命」には出会わない。
真に自由な人間だけが宿命に出会うことができる。
甲野善紀先生もそうおっしゃっている。

そういえば日曜日の甲南麻雀連盟第五回例会の戦績を報告していなかった。
私がトップの+88
ドクターが+63
釈先生が+20
初登場カンキくんが「勝ちにきました」という予告どおり+5
江さんがついに帝位から転落か・・・の-63
カゲウラくんが-113
トータルの戦績は
江さんが23戦9勝3割9分1厘
私が24戦8勝の3割3分3厘
釈先生が13戦3勝の2割3分1厘
ドクターが22戦4勝の1割8分1厘。
麻雀はツキが平均しているなら、勝率2割5分のはずであるので、だいたいプロ野球の打率に準じて考えればよろしい。
そう考えると、江さんの3割9分1厘という打率のありえなさが分かるであろうし、私の3割3分3厘がかなりの高打率であるということも知れるであろう。
年間の戦績では累積点数のみならず、勝率についてもぜひ競い合いたいと思う。
--------