レヴィナスの時間

2005-12-04 dimanche

「ことし一番忙しい一週間」の最後は同志社女子大でのイス研の研究例会。
青空のひろがる京都御所の横をとことこ歩いてゆくと今日の発表の相方である山本尚志さん渡辺泉さんご夫妻と毎日新聞のN野さんと出会う。
山本さんは『日本を愛したユダヤ人ピアニスト、レオ・シロタ』(毎日新聞社)という著作から知られるように、「日本」と「ユダヤ」と「ピアノ」(およびピアニスト)が好きな人である。
今回のお題は1933年の満州で起きた「カスペ事件」というユダヤ人青年の誘拐殺人事件の顛末について。
関東軍諜報部、ハルビン総領事、ユダヤ人富豪、シオニスト、白系ロシア人のファシスト組織、イタリア人スパイ、フランス領事館の雇った探偵たちなどが入り乱れる謀略あり銃撃戦ありの、ジョン・ル・カレというよりはイアン・フレミングの世界である。
とはいえ、満州というのはまことに謎めいたエリアであってハリウッド映画ふうの「おれはグッドガイ、あいつはバッドガイ」という二分を許さないのである。
論理的かつ実証的な山本先生のご発表の後を受けて登壇。
レヴィナス時間論をネタにしてしゃべるのはこれがはじめてである。
だからかどうかしらないけれど、N野さんの他に『私家版・ユダヤ文化論』の新書担当のO口さん、『文學界』担当のY下さん、新旧ふたりの二人の女性編集者、それに本願寺出版社のフジモトさんとウッキーも見に来ている。
「レヴィナス『時間と他者』を読む」というのがタイトルである。
この二三ヶ月のあいだには逆さに振っても草稿を準備する時間などあるはずもなく、資料にいくつか重要な引用を記した他は、口からでまかせ天まかせである。
昨日の人事教授会のあいだに配付資料の裏側にさらさらとメモを書いて、だいたいこんな話をしようと決めておいたので、それを取りだして見る。
「自殺サイト」「時間を遡行して形成される主体」「複素的身体」「anachronisme」「Heidegger 時間論」などと走り書きがしてある。
なんのことだかよくわからない。
わからないままに1時間半しゃべり、「レヴィナスの il y a というのは『時間の無時間モデル』なのです」という決めのフレーズで締める(このフレーズは、朝方の半睡状態の中で天啓的に得られたのである)。
「il y a」はもちろん「・・・がある」という意味であるから、これまでのレヴィナス研究者はこれを存在の比喩で語ってきた(そして語れなかった)のであるが、これこぞ「コロンブスの卵」で、あれは「時間を空間的表象形式で語るとこんなふうになりますよ、気持ち悪いですね」という話なのである。
レヴィナス時間論の基本は「時間は空間的には表象できない」(むりやり表象すると「イリヤ」になる)ということである。
当たり前だけど。
そして、他者もまた空間的表象形式では把持しえないものである。
他者を主体からの「隔絶」という「距離の比喩」で語る他者論が破綻するのは、他者性の本質が「空間的遠さ」ではなく「時間的隔絶」dia-chronie であることを(レヴィナス老師がちゃんと書いているのに)読み落としているからなのである。
すべては時間のうちで生成する。
時間の根源的未知性こそが「私」の主体性を基礎づけるのであって、その逆ではない。
「一寸先は闇」というのは「一寸先は闇」であるという事実認知的な言明ではない。
「一寸先は闇」だから現在ただいまのふるまいについてはそのことを前倒しに繰り込んで勘案するように、という遂行的な言明である。
「そんなに無駄遣いしないほうがいいよ。『一寸先は闇』というじゃないか」というのは、「一寸先」の未知性に基づいて「節約」という現時でのふるまいを規定している。
Save for the rainy day という訓戒は「雨降りの日が必ず来る」ということを述べているのではない。
「雨降りの日が来るか来ないかわからない」ということを述べているのである。
そして、「雨降りの日が必ず来る」ことを前提とする場合よりも、「雨降りの日が来るか来ないかわからない」ことを前提にして構築された主体の方が、運動性において開放性において倫理性において、総じて生存戦略上有利なあり方を取ることができるのである。
例えば、ジャンセニストは私たちの霊が死後に救済に与るかどうかは「不可知」であると教える。
私たちがどれほど生前に善根を積んでも、それによって救済の成否が変わるということは起こらない。
なぜなら、善行を行えば天国に行けるのなら、私たちは「天国の鍵」を開け閉めする権利を保有していることになるからである。
これほど神を蔑する考え方はない。
だから、生きている間、キリスト者はずっと「どきどき」していなければならない、とジャンセニストは教える。
おのれの魂の行く末が完全な未知であることにおののいている人間の方が、善根を積んだからもう天国の指定席はキープしたぞと安心している人間よりもキリスト者として「まっとう」であるというのは深い人間観察に裏うちされた知見といえるだろう。
私たちが現時におけるふるまい方や考え方や感じ方を「よりまっとう」な方向へ調律するのは、「これからどうなるかがわかっている」からではなく、「わからない」からである。
フッサール現象学は「あらゆる主観性は共同主観性である」と教えている。
その命題が受け容れられるなら、「他我」を時間的に展開したときに、私の主観性が「私がすでに忘れた世界」や「私がまだ見たことのない世界」を経験している「他者」たちと共同主観性を構築してはじめて成立するという理路も理解できるはずである。
同-時的 (syn-chroniquement) に異なる空間に展開する「他我」が「私」の主体性を基礎づけているように、離―時的 (dia-chroniquement) に異なる時間に展開する「他者」もまた「私」の主体性を共同主観的に構成している。
しかし、私たちは共同主観性というものを空間的以外の仕方で表象する知的訓練を受けていない。
レヴィナスの時間論=他者論=主体論が難解なのは、それが経験的には自明のことでありながら、それを語る哲学の言語がないような種類の経験を記述しようとしているからなのである。
というような話をすればよかったが、これもまたいつものあと知恵。

例会の打ち上げはいつもの「きよす」で寄せ鍋。
女性編集者プラスウッキーが飛び入りで参加したため、たいへん賑やかな会となる。
自己紹介の過程で、イス研の会員たちがいかに青年の日々に宮澤正典先生の学恩に深く浴していたかということが明らかにされる(もちろん私もその一人なのである)。
その宮澤先生にご案内頂いて、同志社大学のクリスマス・イリュミネーションを拝見して帰途につく。
京都から芦屋まで爆睡。
よほど疲れていたのであろう。
まことによく働いた一週間であった。
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