今年もっとも忙しい一週間の二日目

2005-11-29 mardi

あまり知られていないことだが、忙しすぎる「かえって楽」という倒錯が発生する。
心身が「めちゃ忙しい」モードになっているので、「今日は何かイレギュラーな約束があったはずだ・・・」というふうに絶えずスケジュール表をチェックしているので、ダブル・ブッキングとか約束忘れということが起こらない(だから「すみません」とあちこちに謝って回らずに済む)。
まったく休む時間がないと思っているので、休み時間ができると、それが10分間であってもたいへんうれしくなる。
スケジュールをこなすだけで精一杯で、クリエイティヴなことは何もできないと思っているので、原稿の十行も書けると「自分をほめてあげたい」気分になる。
結果的に中途半端に忙しいときより、めちゃめちゃ忙しいときのほうが疲労感が少ないという不思議なことが起こる。
なるほど。
これをして「ワーカホリック」と言うのか。
多忙過労の状態に嗜癖するということは、考えてみると、生理学的にも理屈にかなったことである。
というのは、作業能率を上げるために、私はいわば「燃料備蓄を先食い」しているわけであるから(「命を縮めている」ともいう)、短期的には燃料が「余っている」という状態もときどき起こるからである。
その「燃料過剰」がある種の「多幸感」をもたらすことがある。
力がみなぎって、何でもできそうな気がするのである。
10日分の燃料を5日で使い切るような消費の仕方をしているわけであるから、原資が潤沢なあいだはそれなりに「いい気分」になって当然である。
それに多忙過労は「自己憐憫」をもたらす。
「こんなに働いて、かわいそうなオレ・・・」
という自分に対する同情は、相手が熟知した人間であるだけに、まことに行き届いた、かゆいところに手が届くような気配りを伴う。
考えてみると、私は「自分をほめてあげたい気持ち」になったときに自分に贈り物をする場合には、「他人をほめてあげたい気持ち」になって他人に贈り物をするときよりもはるかに雅量豊かな人間になっている。
現に、私は自分に「よく働いたね、ごほうびに車を一台買ってあげよう」と口走ったことは二度あるが、他人にその努力を多として車を買ってあげたことはない。
つまり私が「ワーカホリック」的に多忙状態に嗜癖するのは、どうやらこの「自分をほめてあげる」条件を満たした場合の私の私自身に対する「大盤振る舞い」の味をしめたせいではないかと推察されるのである。
私どもが罹患する疾病のかなりは「疾病利益」を患者にもたらすがゆえに無意識的に選択されている。
逆説的なことだが、「病気になる」ことで私たちは生命を永らえているという言い方も可能なのである。
というのは「決して病気にならない」人間、つまり身体システムの不調を不快に感じない人間はあっというまに死んでしまうからである。
私の場合は、どうやら過労がもたらす多幸感が、過労がもたらす不幸感よりも量的にも質的にも大であるということが疾病利益を構成しているように思われる。
そして、この倒錯は結果的には私を健康たらしめている。
なにしろ、「過労」が多幸感をもたらすものであるならば、私が「過労かそうでないか」のみきわめにたいへん敏感になることは自明のことである。
それは「満腹」が多幸感をもたらす人間が「腹が減っているのか一杯なのか」を絶えず気遣うのと構造的には同じことである。
私が「いそがしいよー」とか「つかれたよー」とか年中騒ぎ立てているのを「煩わしい野郎だ」と苦々しく思われている方も多いであろうが、これは私が常人よりもはるかに「多忙」と「疲労」に敏感な人間であるからなのである。

午前中に朝カルの資料を作成して送信。
そのあと三宅接骨院で全身をほぐしていただき、来院されていたおいちゃんの母上にご挨拶。
ソッコーで大学へ行き、『AERA』のH田記者から『下流社会』についての取材。
1時から第一回のゼミ面接。
例年は廊下にあふれるほど人が並ぶのであるが、今回はゼミの紹介の席で「冷やかしの人は遠慮してね」と警告したせいもあってか、わずか6人しか来ていない。
あら。
30分ほどで面接終了。
時間があまったので、ひさしぶりに研究室の掃除をする。
本棚に何か面白そうな本がないかな・・・と思っていたら『アメリカ映画における子どものイメージ』(キャシー・マーロック・ジャクソン)という本があるのを発見。
なんだ、ちゃんとそういう研究があるんだ。
さっそく読み始める。
ついでに京大の集中講義用にネタになりそうな映画本を数冊鞄に詰め込む。
いずれも英語の本なので、とても集中講義までには読み終わりそうもないが、こういうものは適当に「ぱらり」と開いた頁に「おおお!」というようなデータが載っていたりするので傍らに置いておくとよいことがある。

ゼミは「高齢者虐待」。
なんと、幼児虐待に続いてDVは高齢者を標的にしているのである。
DV問題の遠因についてグローバリゼーションとリスク社会にからめて論じる。
おお、これはまんまあさっての朝カルに使えるではないか。
ゼミ生たちはまことに貴重なる情報源である。
ありがとね。

大学院の中国論は「中国の自然観」。
陶淵明の詩が資料に出ているのであるが、使用されたのは口語訳。
「東籬に菊を採り、悠然と南山を見る」が「東の垣根の菊を摘んで、悠然として南の山を眺める」ではなんというか、「気分」が出ない。
話が逸れて、どうして日本の中等教育は漢文を必修から外してしまったのかという問題について熱弁をふるう。
現代日本には英語まじりの文章を書く人間はいくらもいるが、漢語まじりの「ぱんぱんぱん」と叩き込むようなリズムの文章を書く人間は払底しつつある。
もし文章能力ということをほんとうに問題にするなら、漢文リテラシーの壊滅的な低下をこそ問題にすべきではないのか。
齋藤磯雄訳のヴィリエ・ド・リラダンは竹信くんご推奨の偉業であるが(まことに竹信くんは「良書」鑑定眼に卓越した人物であった・・・)、齋藤先生のように縦横に漢語を操ることのできる外国文学者は現代日本にはもう存在しない。少なくともフランス文学者には一人もいない。
この輝かしい文化的伝統を私たちの世代で途絶させてしまってよろしいのであろうか。
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