素晴らしき日曜日(承前)

2005-11-27 dimanche

さらさらと『時間と他者』のレジュメを切っているうちに、重大なことに気がついた。
よくよく考えてみると、1時間ほどの口頭発表で、(いくらユダヤ学について造詣深いイス研のみなさまとはいえども)レヴィナスの時間論を、ほとんど予備知識のない状態からスタートして、ご理解いただくというのはまるっと不可能なことである。
例えば、私がまず解釈しなければならないのは『倫理と無限』でレヴィナス老師ご自身が自著を解題したときのつぎのようなフレーズである。

『時間と他者』は他者との関係を時間という要素を持つものとして考究したものです。時間そのものが超越であるということ、時間こそがすぐれて他者 (autrui) および他者性一般 (l’Autre) に向かっての開かれであるという着想が兆したのです。このテーゼは超越を時間の非連続性 (dia-chronie) として考想したものです。時間が非連続的である限り、〈同一者〉は〈他者〉と「かかわりがあるのか、ないのか、わからない」(non-in-différent)。単なる同時性のうちで形式的な仕方で仮に〈他者〉と時間を共有していたとしても、それは〈他者〉を包囲したということにはなりません。未来の未知性は現在を起点に未来を望む限りは記述することができません。なぜなら、現在において未来は「到来すべきもの」(à-venir) として予知されており、未来把持 (pro-tention) によって先取りされているからです。

という話をマクラに振って、「周知のようにレヴィナスは『時間と他者』をこのように位置づけたわけです。ですから・・・」というふうに話を先に進めた場合、聴衆の過半はただちに深い眠りに就かれるものと推察される。
せっかく日曜半日つぶして仕込みをして、寒風の中京都まで行って、一時間熟睡されたみなさんに「ご静聴ありがとうございました」と一揖して帰ってくるというのも、思えば空しい話である。
そこで、急遽計画を変更して、この引用部分を「マクラ」ではなく「ふとん」として採用することにした。
つまり、この「ふとん」はどのよう使用すれば寝具として用いることが可能であるかを、いわば TV ショッピングのセールスのお兄さんのように、すらすらと解説してさし上げようではないかというのである。
「はい、これね、一見すると、なんだかまったく意味のわからないカタマリなんですけれど。実は奥さん、これには秘密があるんですよ。例えば、『ここ』をこんなふうにひっぱると・・・」
「あら!」
「ね、奥さん、すごいでしょ。さらに『ここ』をこう開くと、ほら、こんなものが・・・」
「まあ、こんなの見たことない、ふふ」
という展開に持ち込もうというわけである。
こういう態度の悪い展開を考え始めると私の知性はたいへん効率的に回転しはじめるので、あっという間に発表の仕込みが終わってしまった。
時計を見ると午後1時半。
では、というので久しぶりに元町の大丸に買い出しにでかける。
まずコルネリアーニに行く。
コルネリアーニはミラノの紳士服屋さんであるが、私はアルマーニよりこっちの方が着心地がいいので、このところごひいきなのである。
ストライプのスーツとオレンジと紺のレジメンタル・タイとワイシャツを買う。
カードの計算書を見たら、スーツが考えていた値段の半額で、シャツが四倍であった。
私の商品鑑定眼はまるで頼りにならない。
さらに靴売り場に寄ってスコッチ・グレインのスエードのブーツを買う。これはバイク用。
ちらりと靴を見回すとなかなか「しゃきっ」としたいい靴がある。
近くに行って手に取るとフェラガモである。
やっぱりものはいいが、値段は85000円。
また今度ね。
ついでに小物売り場でサスペンダーを二本買う。
サスペンダー愛用者はあまりいないので、品数が少ない。
Takeo Kikuchi と Comme ça du mode(意味なしフランス語)。
私がサスペンダーを愛用しているのは、かつて多田先生がブラックスーツの下に着用されているのを拝見したからである。
弟子というのは師匠の「どうでもいいところ」を真似するである。
続いてジュンク堂に移動。
まずウチダ本の売れ行きをチェックする。
文春のヤマちゃん本(『知に働けば蔵が建つ』というのがほんとうのタイトルである)が新刊書のところに平積みになっている。
哲学現代思想のコーナーにゆくと「内田樹」という「べろ」ができていて、じゃんじゃん本が並んでいる。
『街場のアメリカ論』とか『ヤマちゃん本』を「哲学・現代思想」にカテゴライズすることが適切なのであろうか・・・と深甚なる疑問を抱くが、同一著者の本をまとめて置いておいてくれると買う方はたいへん便利であるから、ジュンク堂書店のみなさまのご配慮を多とするのである。
ジュンク堂への感謝を売り上げへのご協力として物質化すべく四階の「漫画売り場」にゆく。
途中で『文藝別冊』大瀧詠一特集が目にとまる。
おお、ついに出たか。
手に取ると、なんと「スペシャル・ロング対談 大瀧詠一×内田樹 ナイアガラ・ライフ30年」が巻頭から延々42頁続いている。
ぱらぱらと読み出すと面白くて止められなくなる。
そのまま最後まで立ち読み(買えよ)。
立ち読みのお詫びに、漫画本売り場で二ノ宮知子の漫画を大量購入。
『天才ファミリー・カンパニー』1巻から6巻まで(これだけで5000円)。
そのまま地階の HMV に降りて、DVD を次々衝動買いする。
『エイリアン1,2』、『マトリックス』、『ダイハード1、2』、『ホームアローン』、『エクソシスト』、『荒野の七人』、『羊たちの沈黙』しめて9本。
いずれも年末京大での映画論集中講義のネタである。
これまではビデオ屋や大学のAVライブラリーで借りたDVDを持って行ったのであるが、古い映画でもいざというときに意外に「貸し出し中」ということがあるので、保険のために買っておくのである。
『エイリアン』でミソジニーを論じ、『エクソシスト』と『ホームアローン』でペドフォビアを論じ、『羊たちの沈黙』と『サイコ』と『悪魔のいけにえ』でエド・ゲインを論じ、『北北西に進路を取れ』でラカンを論じる。
ラカン理論の最高の教材といえば、ディカプリオくんの『仮面の男』。
カメラアングル論をするとなると、『秋刀魚の味』は『裏窓』とセットにして見ないといけない。
俳優の身体論に言及すると『荒野の七人』を見落とすわけにはゆかない。
ベン・ジョンソンとケヴィン・コスナーのどちらが馬に乗るときの姿勢が美しいかとか、クラーク・ゲイブルとハリソン・フォードではどちらの服の脱ぎ方が美しいかとか、マニアックな話を始め出すともうときりがない。
映画ばかり見せていると、私がしゃべる時間がなくなってしまうが、それもよいかもしれない。
なにより私が楽だ。
重たい荷物をかかえてよろよろと芦屋に帰る。
ひさしぶりに日曜日らしい日曜日だったな。
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