寝た寝た、10時間寝た。
ひさしぶりの週末である。
温泉麻雀の欠点は、朝8時に叩き起こされることである。
ドント・ディスターブで昼まで寝かせてくれる温泉旅館があれば、それこそ真のサービスというものであろうと思うが、日本の旅館は早く朝飯を食わせて、午前10時にはチェックアウトさせようとするのが、私のようないぎたなく朝寝をすることを愛する人間にはいまひとつ納得がゆかないのである。
あと晩飯のありようにもやや不満である。
湯上がりにどてら姿で手酌でビールをのみながら、よこではTVがついていて、がはがはと笑いながら・・・という状況でこじゃれた料理を食べるというのがなんだか落ち着きが悪い。
やはりこういう状況では「トンカツ」とか「すき焼き」とか「豚汁」とか、そういうラフな「一本勝負的」食い物をはぐはぐと食べて、仕上げにご飯とみそ汁とお新香というようなシンプルかつ力強いものが望ましい。
そういう「定食屋」的なパワフルな晩飯がチョイスできて、朝ぐっすり寝かせてくれて、そして、露天温泉から四囲の山々が見える・・・というような旅館を私は強く望むものである。
これについては同行の三人も同意見であった。
だが、そのような温泉旅館は現実には存在しない。
現実に存在させることが容易であり、かつ一定数のニーズがあるにもかかわらず、まったく供給される気配がない。
これは旅館の方々のマーケットリサーチの仕方にかなり問題があるのではないのかと案ずるのであるが、そんなことはどうでもよろしい。
この一週間はまことに忙しかった。
講演を二つ、インタビューを二つ、仕事の打ち合わせを二つ、校正を三本、原稿を一本、温泉麻雀で半荘10回やって、1500キロ移動して、銀色夏生さんに会って、ベルギー王立バレエ団(だったんですって)の子たちに合気道を教えて、その間にふだん通り会議と授業と稽古をしていたのである。
死ぬかと思った。
しかし、来週はそれを上回る仕事量である。
日常業務に加えて、ゼミ面接が始まるからである。
去年は面接者80名。
ひとり10分から15分の個人面談であるので、毎日毎日トータルで15時間くらい面接をした。
オフの水曜日も授業のない時間帯もすべて「ゼミ面接」で埋め尽くされる。
その間にインタビューが二件。原稿締め切りが一本。
さらに水曜に養老孟司先生と対談して、木曜が朝カルで、土曜が同志社女子大でイス研の発表が当たっている。
朝カルはぶっつけ本番で小咄を七つ八つつなげて逃げ出すつもりであるが、イス研は研究発表であるので、90分ほど何か専門的知見を語らねばならない。
いちおう「レヴィナス『時間と他者』を読む」と題名だけは送ったが、もちろん原稿は一行も書いていない。
ダイヤリーを見ると草稿を準備している時間は今週は一時間とてない。
ということは今日一日で仕上げるしかないということである。
現在日曜朝10時10分。
さいわい、本日は部屋の掃除とアイロンかけと布団干しとアンケート回答一本と冬物スーツの買い出し以外には何の用事もない「すんごく暇な日」なので、今日一日でレヴィナスの時間論を書き上げてしまうのである。
と書いてから、まず最初に東京新聞の「今年の三冊アンケート」に回答する。
この手のアンケートが来るのは三回目である。
最初のアンケートに何を書いたのかもう覚えていない。
二度目のアンケートは回答を忘れているうちに「もういいです」という断りが来た。
三番目のアンケートに書いたのは以下のごとくである。
『USAカニバケツ』(町山智浩、太田出版)。これは去年のクリスマス発売。つまり「今年のベスト」のリサーチが11月に行われる以上、構造的にどの年度においても選択されない書物である。米国在住の映画批評家町山智浩は私がもっとも信頼する現代の書き手のひとり。「三面記事」的現実からアメリカの民族誌的奇習を鮮やかに剔抉する。
『イン・ヒズ・オウン・サイト』(小田嶋隆・朝日新聞社)町山智浩と並んで私が絶対の信頼を置くもうひとりの批評的精神小田嶋隆の名物ブログからのコンピ本。この二人の本は今年もあまり売れなかった。「切れすぎる刀」を納める鞘をメディアの側が用意できないからだろう。
『拒否できない日本』(関岡英之、文春新書)親友の平川克美くんが「今年のベスト」と推奨してくれたのでさっそく購入。「年次改革要望書」は間違いなく2006年度上半期にメディアでもっとも頻繁に言及されるキーワードのひとつになる。
ついでに、角川の『野性時代』から来た「青春文学」についてのアンケート回答も貼り付けておく。これは今発売中の号に出ている。
私が選んだ「青春文学」は矢作俊彦と庄司薫。
『マイク・ハマーに伝言』(矢作俊彦・角川文庫)
処女作に作家の可能性はすべて出そろっていると言われるが、矢作俊彦のように処女作ですでに完成してしまった作家は希有である。四半世紀を隔てている『マイク・ハマーに伝言』と『ロング・グッドバイ』のあいだに違いを見つけることはむずかしい(私にはできない)。それを「進歩がない」というふうに否定的に総括する人がいるかもしれない。だが、私は「天才には進歩はない」という判断に与する。本人にとってさえ進歩や改善の余地が残されていない作品を最初から実現できるような人間のことをこそ「天才」と呼ぶのである。
「『キャデラックは車の形をした昔だそうだ』克哉が口を開く。
『どのくらい昔だい?』
『知らんよ。ソール・ベローが言ったんだ』」
こんな対話を書いた作家は日本文学史上矢作俊彦が最初であり、彼にはフォロワーさえいない。
『さよなら怪傑黒頭巾』(庄司薫・中公文庫)
青春を描いた作品では、作家自身の自己愛の生々しさがしばしば作品を腐らせる。庄司薫の連作が時代を経ていまだにそのような「腐臭」をまぬかれているのは、主人公の「薫」が作者の「分身」ではなく、技巧的に構築された「道具」だからである。「薫」の内部には何の闇もない。性欲でさえ「薫」の透明なまなざしの下ではまるで歯痛や深爪みたいに礼儀正しく語られる。
すでに社会のエスタブリッシュメントの中に組み込まれ、それなりの地位や威信を得た代償にもう十分に自由ではなくなった薫の「兄たち」の肖像のうちに庄司薫は(主人公より十歳年長の)彼自身の「敗北の肖像画」を描き込んだ。この屈折した自画像を描出するために「薫」という文学的虚構は要請されたのである。だから、「薫シリーズ」四つの連作の中で、「兄たち」を隠された主題に擬したこの作品だけがほんとうの意味での「青春」文学なのである。
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(2005-11-27 10:22)