「責任を取る」という生き方

2005-11-25 vendredi

朝新聞をひらいたら、目に付いた記事が三つ。
西村真悟衆院議員の法律事務所の元職員が非弁活動で逮捕された事件についての同議員のコメント。
「非弁活動は知らなかった。それ以上申し上げることはない」
広島で七歳の女児が下校中に殺害された事件についての報道。
「『不審者情報があったのに、学校側は何の対応もしなかった』と、一部の親が厳しく問う場面もあった」
姉歯設計建築事務所による耐震データ偽造事件についての報道。
建築主の中からは「建築確認の責任は行政が負うべきだ」という声が出ている。北側国交相は賠償には言及せず、ある裁判官は、最高裁決定は「責任を自治体が負えといっているわけではない」と述べている。被害者は設計事務所にも、元請けにも、民間審査機関にも、施行主にも「賠償請求が可能」であるらしい。
これらのニュースに共通するひとつの「文型」があることに気づかれただろうか。
それは「お前が責任を取れ」という声だけがあって、「私が責任を取ります」という声を発する人がいないということである。
私たちの社会はいまそういう人たちがマジョリティを占めるようになってきた。
トラブルが起きるたびに「誰の責任か?」という他責的な語法で問題を論じることが、政治的に正しいソリューションだと人々は信じているようである。
前から申し上げているように、私はこのソリューションの有効性に対して懐疑的である。
「責任者を出せ」ということばづかいをする人間はその発語の瞬間に、その出来事を説明する重要なひとつの可能性を脳裏から消しているからである。
それは「もし、この件について自分にも責任があるとしたら、それは何か」という問いへむかう可能性である。
世の中に起きるトラブルで「単一の有責者の悪意ないし怠慢」によって起こるものはほとんど存在しない。
いくつかのファクターの複合的効果によってはじめて事件は起こる。
事件発生ぎりぎりの可能性があっても、「最後のひとつのファクター」が関与しなかったせいで、何も起こらないですんだ、ということはよくある。
車を運転しているとわかる。
先日私はめずらしく「ひやり」とする経験をした。
右折車線で信号が変わるのを待っているときのことである。
その車線は渋滞しており、信号が二度変わる間に私はまだ右折できずにいて若干イラついていた。これがファクター1。
青信号(直進右折ともに可)のとき私の前の車がするすると右折した。対向車線を見るとかなり遠くに直進車が一台いるだけである。「曲がれる」と判断して私は前車に従って右折動作に入った。これがファクター2。
すると前車が交差点中央過ぎで停車してしまった(横断歩道の歩行者がいたのである)。これがファクター3。
前方にいた直進車が自分の車線の信号が黄色に変わるのを見ていきなり加速してきた。その車の進路を私の車が塞いでいるにもかかわらず、その車は「どけどけ」とばかりに加速してきたわけである。これがファクター4。
前の車は停止したまま、横からは直進車。やむなく私は前車の右側の隙間(反対車線上の横断歩道)に車をねじ込んで難を避けた。すると、私がはみだしたその反対車線(右折レーン)に巨大な四駆が突っ込んできた。これがファクター5。
この段階でようやく私の前の車が動き出したので、ぎりぎりのタイミングで私は四駆との接触を避けることができた。
もしあのとき、まだ横断歩道上に人がいたら、私のBMWの横っ腹はがりがりに削られていたであろう。
さいわい何も起こらなかった。
この一連の出来事の中で私が犯した失敗は「曲がれると判断して、前車についていった」という判断ミスだけである。
そこに「とろとろ歩く歩行者」「とろい運転をする前車」「(前方に障害物があるのに加速する)イラチな直進車」「(停止線を越えて横断歩道上まで突っ込んでくる)同じくイラチな右折車」という四つの要素が絡んで事故寸前までなった。
ここまでネガティヴな条件が揃うことはまれである。だが、たまにはそういうこともある。
もし実際に衝突が起きた場合、「右側通行」をした私が責任を取らされることになったであろう。
それは仕方がないと思う。
私は「私ひとりのせいじゃない。責任は〈あいつら〉にもある」というようなことを言いたいわけではない。
「責任を取る」というのは「そういうこと」だと申し上げているのである。
「ひやり」とした経験から、私をそのような状況へと追い込んだ他のドライバーたちに対する呪詛を吐き出すよりも、自分の運転の仕方についての反省点を見出す方が生産的だというふうに私は考える。
「事故になりかかったじゃねーか。ったくひでえ運転しやがるな〈あいつら〉は」ではなく「事故になりかかったが、ならなかった。私は幸運であった。しかし、このような幸運が次も続くとは限らない。では、どのようにすれば今回のような危険を今後永続的に回避できるか?」というふうに私は問いを立てる。
私は「右折車に遮蔽されて横断歩道が見えない場合には、決して右折動作に入らない」というルールを自分に課すことにした。
「責任を取る」というのは、端的に言えば、「失敗から学ぶ」ということである。
「責任を取らせる」というのは、「失敗から学ばない」ということである。
失敗から学ぶ人間はしだいにトラブルに巻き込まれる可能性を減じてゆくことができる。
失敗から学ばない人間がトラブルに巻き込まれる可能性はたいていの場合増大してゆく。
そういうタイプの人間は、80%自分が悪い場合でも、残り20%の有責者を探して責め立てるようなソリューションにしがみつくようになる。
だが、他責的な人間が社会的な承認や敬意や愛情を持続的に確保することはむずかしい。
そして、周囲からの支援を持たない人間は、リスク社会においては、ほとんど継続的にトラブルに巻き込まれ、やがて背負い切れないほどの責任を取らされることになるのである。
「失敗から学ぶ」ことは「成功から学ぶ」ことよりも生存戦略上はるかに有利なことであると私は思っている。
しかし、現代日本ではこの意見に同意してくれる人は日ごとに減少している。
なぜ、人々は自分が「より生きる上で不利になる」方向に進んで向かってゆくのか。
私にはうまく理解できない。
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