言うまいと思えど今日も疲れたよ(痴楽)
柳亭痴楽なんて言ってもお若い方はご存じないであろうが、かの大瀧詠一先生の発声のスタイルをかたちづくった三賢人の一人である(あとの二人はエルヴィスと片岡千恵蔵)。
とにかくなんでも五七五で言って、あとに「痴楽」と続ければ、それだけで座が和むという時代が1956年頃に存在したのである。
よい時代であった。
おっと、こんなところで遠い眼をしている暇はないのだ。
言うまいと思えど今日も会議が六つ。
入試委員会、学務委員会、将来構想委員会、合否判定教授会、定例教授会、人事教授会である。
入試委員会と将来構想委員会で議決したことを学務委員会で承認してそれを教授会で承認するのである。
そのすべてに出席している人が12人くらいいる。
だから、その12人にとっては一日の残り半分は「デジャブ」状態なのである。
現実感覚は希薄となり、眼はうつろとなり、あらがいがたい睡魔が間歇的に訪れることを誰が責められよう。
「ねえ会議多すぎますよ。もう止めません、会議?」
と臨席のM田先生につぶやくが、先生は遠い眼をして「はあ、そうですねえ、はあ」とすべての希望を失った人間に特有の力のない笑いで応じるばかりなのである。
以前は教授会中に全時間爆睡するということも可能であったのだが、現在は席の関係で、私が居眠りしかけるたびに学長から「がつん」とひじ打ちが来る(これはあくまで「比喩的表現」であって、本学の学長はそのようなルードなことはなされない)。
思えば学長はそのすべての会議で議長をされているのであった。
なんと気の毒なことであろう。
その来年からの学長を選ぶ学長選挙が今日あった。
結果はまだ告知されていないが、どなたがなられたにせよ、その方は教授会メンバーの負託を受けたという誇りと同時に深い疲労感にとらえられたであろうことを思うと、非情なウチダも一掬の涙を禁じ得ないのである。
どのような組織体であれ、会議数がある閾値を超えることは組織的な危機の徴候であると申し上げてよろしいであろう。
会議はなるほど「民主主義のコスト」であるが、コストはそれがもたらすベネフィットを超えてはならないということもまた重要な真理である。
「あれをなにしといてください」「あ、はいはい」でことが済むなら、会議は要らない。
しかし、「この案件はどのような機関決定を経て決定されたのであるか、その経緯をつまびらかにして頂きたい(オレはきいてねーぞ)」というようなことを言い出す方が一定数以上存在すると案件の周知と審議のために会議を開かねばならない。
そして、しばしば、そのようなことを声高に言われる方に限って、会議の席にいなかったり、会議の席で爆睡せられたりしているのである。
本学の会議数はすでに「危険水域」に入りつつある。
「会議負荷」による疲労によって、組織が果たすべき本来の任務に割くべきリソースががりがりと削り取られている現状を私は深く憂うのである。
よろよろと家に戻る途中、コープで「クリームシチュー」の材料を購入していると、音楽学部のS崎先生とばったり会う。
「先生んち今日は何ですか?」「うちは鍋です」「うちはシチューです」
という心温まる会話をかわしてお別れする。
明日は朝から公開講座で一席ぶって、そのあと合気道の稽古をして、それから楽しい週末温泉である。
ではみなさんもよい週末を!
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(2005-11-18 21:09)