3年生のゼミでは「憲法改定」という大きな題が出た。
「憲法改正の国民投票が間近に迫っています・・・」という現状分析から始まる大ネタであるが、まずその「前提」にびっくりした。
ちょっと待ってくれ。
いったい、いつから「国民投票が間近に迫っています」ということが国民的常識に登録されたのであるか、そこのところを明らかにしていただきたい。
たしかに、こういうのは「時代の気分」の問題であって、別に統計的根拠に基づくものではない。
おそらく先般の総選挙で小泉圧勝をもたらした「時代の気分」は憲法改定までを含めたドラスティックな社会構造の変化を渇望しているのであろう。
どのような変化であるかはさだかではないが、とにかくこの「停滞感」を何とかしてくれ、といううめき声のようなものがこの社会のあちこちから聞こえてくるのはたしかだ。
「憲法改定」はそのような「変化」の象徴である。
「何かを変えなければいけない」ということについては国民的合意がある。
私もそのことについては同意見である。
そのときに国民の約半数が「憲法を変える」ことで、この停滞感が「なんとかなる」のではないかという漠然たる期待を抱いている。
私自身はその判断に与しないが、判断の当否は措いて、そのような期待が現に「ある」ということは認める。
自民党の改憲案はいろいろなことが盛り込んであるが、端的に日本国憲法の改定は「九条第二項」の廃絶ということを意味しており、それに尽きると言ってよいだろう。
あらためて九条を読み返してみよう。
第九条 【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
ご存知の通り、九条一項は不戦条約の条文ほぼそのままである。1929年濱口雄幸内閣のときに日本はこれに調印した。
その第一条は次のようなものである。
「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ放棄スルコトヲ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス。」
この不戦条約には他にアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、ソ連など63国が署名した。条約には期限が明記されていないために、国際法上不戦条約はいまでも有効とされている。
にもかかわらず、署名諸国が今日に至るまで 70 年間「国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコト」を是として、戦争を繰り返しているのは、この条約が「自衛戦争」を禁止していないからである。
あらゆる戦争は自衛のために戦われる。
だから、「自衛のための交戦権を留保した不戦」というのは、「生命保持のための摂食権を留保した断食」「用事がある場合の外出権を留保した監禁」に類する言い方である。
つまり、憲法九条第一項というのは戦争抑止上無意味な条項であり、平和憲法の政治的機能は第二項にしかない。
こんなことは私が言わなくてもみなさんとうにご承知のことだからこれ以上論ずるには及ぶまい。
とにかく、自民党も民主党も、改憲を望む人々は第九条二項を廃絶したいと望んでいる。
戦争に関する「フリーハンド」を回復したいと望んでいるのである。
より厳密に言えば、「(本音のところでは)あまり戦争なんかしたくないけれど、『戦争になるかもしれない』という政治カードを自由に切ることができる国家になりたい」と望んでいる。
「戦争になるかもしれない」という緊張状態が国民的に広がることのうちにはほとんど数え切れないほどのメリットがあるからである。
私は護憲派の人間であるが、それでも「改憲して『戦争ができる国』になることにはメリットがある」という主張の一部には理ありとしなければならない。
改憲して、戦争ができるような国になるとどのようなメリットがあるか?
ランダムに挙げると、第一に「増税」が可能になる。
ご存知のとおり、戦時体制のときに増税に反対できる政治家はいない。
戦前、戦中でも軍備の拡充のための増税の国会決議はほとんどつねに「満場一致」であった。
「臨戦」気分の醸成は間違いなく国民の圧倒的支持を得て増税できるチャンスを提供するであろう。
現在の日本の国家財政は危機的であり、多くの財政通は増税以外に財政再建のオプションはないと語っている。
だが、増税を掲げて総選挙した場合、自民党が政権を失う確率はきわめて高い。
増税を導入し、かつ自民党政権を維持するためには、「国難」を煽ることによって挙国一致体制を作り上げ、「国民ひとりひとりが痛みを分かち合おう」というイデオロギー的熱狂によって反対世論を封殺することが必須である。
だから、私がいま自民党の財務部門の責任者であったら、必ず「改憲」を訴えるであろう。
第二も同じく経済的理由である。
「戦争があるかもしれない」という危機感の醸成によって、巨額の公共投資がノーチェックで可能になる。
「高速道路建設」「新幹線建設」「飛行場建設」「トンネル建設」などへの税金の投入への反対は「国防上の要請」の一言をもって一蹴することができる。
ゼネコン業界に限らず、すべての製造業者にとって「戦争間近」という市場の興奮はビッグビジネスのチャンスである。
だから、ビジネスマンたちが改憲を望むこと切である理由も私はよく理解できる。
第三の理由はもっと心理的なものであり、メディア知識人が改憲ににじりよっている理由はおそらくこれであろう。
それは「戦争があるかもしれない」という危機感の中で、日本の若者たちが「しゃきっとする」可能性があるということである。
生物の自然として、「安全」状態が長く続けば、感覚は鈍り、アクティヴィティは低下し、生命力が衰える。
逆に生命の危機に際会すれば、身体のそれまで眠っていたリソースが爆発的に開花する。
動物園のシマウマの眼は「どろん」としているが、サバンナのシマウマの眼は「くりくり」している。
当然ながら、動物園は「安全」だからいくらでもでれでれできるけれど、サバンナでは生物としてのパフォーマンスを最大化していないと、すぐにライオンやハイエナの餌になってしまうからである。
平和憲法下の 60 年間は日本人を「動物園の草食動物」のようなへなへなしたものに変えてしまった。
学力低下もニートも引きこもりもリストカットも解離症状も少子化も非婚化も少年犯罪も・・・これらはすべてある意味で「平和の代償」である。
「動物園症候群」と申し上げてもよろしいかと思う。
このような「あまりに平和であるために生命力が萎縮したことによる病的症候」は「戦争が近い」という大気圧下では雲散霧消するであろう。
多くの人々はひそかにそう期待している。
その期待にはそれなりの根拠があると私も思う。
戦時中の社会にノイローゼの人間はいない。精神科の待合室には閑古鳥が啼く。
これは疾病史的事実である。
重篤な精神病患者でさえ、死期が近づくと正気に返る。
生体が危機のときに、メンタルな問題で悩んでいられるほど人間はタフな生物ではない。
危機的状況に陥った人間は使えるすべてのリソースを「とりあえず飯を食う、とりあえずセックスする、とりあえず眠る」といったプリミティヴな活動に集中させる。
当然、身体能力も向上する。
男たちはみんなぎらぎらした眼をして、ハリネズミのように皮膚の感度を上げて都会を歩くようになる。女たちは「サバイバル能力」の高い、生物的に「強い」男であることを、年収や学歴やルックスや趣味のよさよりも配偶者の選択において優先的な条件とするようになるだろう。
おそらく多くの日本人はそのようなしかたでの「日本の若者の野生化」を歓迎するだろう。
外形的には今の「へなへな」の若者たちよりはずっと「まし」に見えるからだ。
不登校や引きこもりやニートは「銃後の守り」という勤労義務への重大な違背とみなされ、厳しい社会的指弾を受けることになり、尻を蹴飛ばされて勤労動員される。
「産めよ増やせよ」と厚労省は叫びたて、結婚率は急上昇し、出産育児は国民の義務を履行する行為としておおいに奨励される。
家庭でも学校でも地域社会でも企業でも、「目上の人間の命令」に従うことの重要性が全社会的な合意を得て承認される。
家父長権は復活し、学校での体罰が許され、でれでれしている青少年は街のおっさんから「この非国民!」とすれ違いざまに張り倒されるようになる。
だって、指揮系統を無視するような兵士は戦場では射殺されて当然だからである。
おいおい、そう聞くと、なんだかすばらしい世の中が来そうじゃないか。
なんだよ、憲法改正ってぜんぜん悪くないじゃないか。
そう思う方々がたくさんおられることだろう。
おられるからこそ、改憲ムードがこれだけ高まっているのである。
私はそのような期待があることを理解できる。
理解できるが私は改憲には反対である。
私は改憲して「サバンナのシマウマ」になるよりは平和ボケしたまま「動物園のシマウマ」でいることの方が100倍もハッピーであると確信している。
このことはあらためてきっぱり申し上げねばならない。
その理由を申し上げる。
このムード的改憲には重大な瑕疵があるからである。
それはこの改憲機運は「戦争が起こりそうになるけれど、実は起こらない状態から得られるベネフィット」のみを勘定して、「戦争がほんとうに起こってしまった場合のロス」については何も考えていないからである。
あるいは百歩譲って戦争が起きた場合でも「日本では起こらない」ということを不当前提しているからである。
誰でもいい、そこらにいる改憲論者を捕まえて、「あなたは『戦争』というとどんな情景を想像しますか?」と訊いてみるといい。
彼らはおそらく反射的に、中東の砂漠や中米のジャングルでのゲリラ戦や、アジアやアフリカの都市での市街戦や、シーレーンや領海付近での海戦のようなものを思い浮かべるだろう。
「戦争の被害」ということばからはベトナムやイラクでの非戦闘員の子どもや女たちの泣き顔を想起するかもしれない。
彼らが決して想像しないのは、「猛火に包まれた東京」や「略奪される自宅」や「敵兵にレイプされる妻や娘」の姿である。
戦争は「ここではないどこか」で起こるものであり、戦争で破壊されるのは「日本ではないどこかの都市」であり、戦争で殺されるのは「自分ではない兵士たち」である。
自分たちはテレビやネットで戦争報道にどきどきしたり、戦争がもたらすさまざまな利得を享受するだけであると改憲派諸君は信じている。
どうして、戦争が起こったら自分が殺され、自分の街が破壊され、自分の財産や自由が奪われるという想像がなされないのか?
理由は意外に簡単である。
それは改憲派の諸君が「戦争」という言葉を使うとき、それは「アメリカ人が『戦争』という言葉を使っているときの意味」で使っているからである。
『街場のアメリカ論』でも書いたことであるが、アメリカは戦争において他国軍に侵略された経験をほとんど持たない。
例外はシッティングブル率いるスー族にカスター将軍の第七騎兵隊が全滅させられた事件と真珠湾だけである。
ただし、スー族はその後帰順してアメリカ国民となったし、真珠湾は併合されたばかりのはるか太平洋の彼方のハワイ島でのできごとであった。
アメリカ人にとってそれ以外の戦争は米墨戦争も米西戦争も第一次世界大戦も太平洋戦争も朝鮮戦争もベトナム戦争もソマリアも湾岸もアフガニスタンもイラクもすべて国境線の外側での戦争である。
だから、アメリカ人はアメリカ領土内で、アメリカ国民を対象とし、アメリカ人の生命財産自由を奪うために行われる戦争というものを想像する習慣がない(911は「テロ」であって「戦争」ではない)。
アメリカ的な「戦争」概念は一種の民族誌的奇習にすぎないのだが、わが国の国際関係論や外交問題の専門家たちはこの特異な「戦争」概念を無批判に「一般解」として受け容れている。
平和憲法の「戦争の放棄」でさえ、「武力による威嚇又は武力の行使」を行いうる「主体」の側の決断としてなされるものであって、自らを戦争において「武力によって威嚇され、武力を行使される側」に擬して、「そのようなことは止めてほしい」と世界に向けて懇請しているわけではない(アメリカ人が採択した文言なのだから当たり前だが)。
「戦争」を論じるときに、つねに自分を暴力の「主語」に措定し、暴力の「目的語」としての自分をまず優先的に考慮するということを「しない」というアメリカ人の習慣を私たちは自明のものとして 60 年生きてきた。
私に言わせれば、これこそが戦後 60 年間の「平和ボケ」の最悪の症候である。
私たちはあまりに平和に慣れてしまったせいで、「平和でない」というのがどういうことであるかを忘れてしまい、「たまには戦争もいいじゃないか」というような妄語を口走るようになってしまったのである。
愚かなことである。
結論を述べる。
現代日本のさまざまなシステム不調のかなりの部分が「日本人の生命力の低下」に起因することを私は認める。
生命力は「生命の危機」に際会すると爆発的に発現するという事実も私は認める。
その上で、私は「動物園のシマウマの退屈」を「サバンナのシマウマの興奮」よりも得がたいものだと思う。
平和は退屈であり、あまりに長く続く平和は人間を苦しめるというのはほんとうのことである。
けれども、その退屈や苦痛は、戦争がもたらす悲惨や苦悩とは比較にならぬものである。
「戦争ができる国」になることによって日本人が今以上に幸福になるだろうという見通しに私は与しない。
「九条第二項を廃絶したら日本人は今よりもっと幸福になれる」と確信している人がいたら(たくさんいるらしいが)、とりあえずまず、私自身が今よりどんなふうに幸福になれるのかについて私を説得していただきたいと思う。
話はその後だ。
--------
(2005-11-17 15:19)