誤植と自殺

2005-11-09 mercredi

『街場のアメリカ論』は誤植が多い。
初版からいろいろな方からご指摘を頂き、重版では直したのだけれど、またまた大誤植が発見されたのでこの場を借りてお詫びと訂正をさせて頂きたい。

「子供嫌い」というのは『街場のアメリカ論』の第六章のテーマであるが、この中で「子供嫌い」の英語訳として掲げた語が間違っている(どう間違っているのかはご自身で確認されたい)。
執筆時に、「子供嫌い」というのは英語で何というのだろうと考えた。
どうもそんな単語を見た記憶がない。
「女嫌い」はミソジニー(misogyny)という。
miso- というのは「・・・嫌い」という接頭辞である。
だから「議論嫌い」は misology、「結婚嫌い」は migogamy、「新しいもの嫌い」は misoneism などというふうにいくらでも造語ができる。
「みそ・子供」というのはどのように表記されればよいのであろうか、しばらく考えた。
思いつかない。
「子供好き」という言葉、これも実は英語にはない。
和英辞典をひくと、philoprogenitive という単語が得られるが、これは「生殖力を好む」という意味であって、日本語でいう「子供好き」とは隔たること遠い。
pedophilia という語があるが、これは「小児性愛」という病的な性的嗜癖を指す語である。
ほおお、英語圏には日本語でいうところの「子供好き」という概念が存在しないのか・・・と思い至ったところで、この第六章のアイディアが澎湃として湧出してきたのである。
この「小児性愛」を逆転した「pedophobia」がおそらくは「小児憎悪」「子供恐怖症」という病的傾向を表す語としてはふさわしいであろう。
英語話者がこの文字を読んだら、さぞや強い違和感を覚えるであろうと邪悪な笑みを浮かべつつさらさらとキーボードにその語を打ち込んだつもりであったが・・・
まあ、誤植は誤植である。
ゲラを飛ばし読みした私が悪い。
ほかの誤植は笑って済ますことができるが、外国語の誤記はすごく恥ずかしい。
おそらく私にもまだ「学者のはじらい」というものが一抹残存しているのであろう。

今朝はNHKの記者さんが取材に来た。
どういう案件かと思いきや、「自殺サイト」の学的考察についてのご意見を求められたのである。
どうして私にそのようなお門違いのお訊ねを・・・と記者さんにお聞きしたら、その前に取材に行った茂木健一郎先生から「ウチダさんとこに行ったらいいよ」とアドバイスされたからだそうである。
茂木さんのご紹介ということであれば、紹介者のメンツをつぶすわけにはゆかない。ない知恵を絞って必死になって語ること90分。
私の仮説は次のようなものである。
まず一般的な前提の確認として、
「死んだときの私」という想像的な消失点から現在を回顧的に見る力が、ほかならぬこの現実にリアリティを与えている。
それは私が「推理小説」を読んでいるときと同じメカニズムである。
ある出来事が起こる。
物語の中ではすべての出来事の意味は文脈依存的であるから、物語が読み終えられて書物を置くまでは、その出来事の意味は未決のままである。
にもかかわらず私たちが推理小説の未決(サスペンス)を愉悦することができるのは、その「物語を読み終えて、すべての伏線の意味を理解した自分」というものを想像的に措定しているからである。
もし、推理小説の場合に、「その小説が途中で『未完』で終わるかもしれない」とか「最後に探偵が『うーむ、わからん』とうめいて、すべては謎のまま終わる」という事態がしばしばありうるならば、私たちは小説を読むことの苦役に長くは耐えられぬであろう。
同じことが私たちの生そのものにおいても起きている。
日々我が身に起きている出来事の「ほんとうの意味」は「私という物語」を読み終えるまでは私は知ることができない。
にもかかわらず日々の出来事に感動できるのは、「『私という物語』を読み終えた私」を想像的に措定して、その仮設的視座から現在を回顧している未来を少しだけ先取りしているからである。
例えば、意を決して愛の告白をするときなど、私たちは自分を含む「映像」を思い描き、そこに「このときがぼくの幸福のあるいは絶頂の瞬間だったのかもしれない・・・」などというナレーションを勝手に入れている。
というか、そういうナレーションを想像的に入れないと、どれほど劇的な出来事だって、さっぱり盛り上がらないものなのである。
だから、劇的人生を好む人は(女性に多いけれど)、愛の告白の瞬間とか、別れのことばを告げるときとかに「鏡」や「窓ガラス」に自分の姿を映すことに強く固着する。
「ウチダくん・・・私たち、もう終わりだなと思うの・・・」
と告げる彼女の視線がどうも私を通り越して遠くを見ているので、なんでだろうと思って振り返ったら、彼女はガラス窓に映る自分に向かって「カメラ目線」で語っていたのである。
それを責めるのは筋違いで、人間というのは「そういうもの」なのである。
閑話休題。
とにかく、私たちは「物語的な結構」の中にリアルタイムの現実をはめ込むことによってしか、リアルタイムの現実の「現実感」を享受することができない。
そして、私たちの現在を「物語化」するためには、「『私という物語』を読み終えた私」、すなわち「死んだ私」というものを想定せざるを得ないのである。
「死んだ私」という想像的な消失点は想像力の強い人間ほど「遠く」に設定することができる。
きわめて想像力の強い人間は、個体としての自分の死を超えて、共同体の死、生物種の死、地球の死、宇宙の死・・・にまでこの無限消失点を後退させることができる。宇宙の死にまでこの想像的視座を後退させることのできる想像力をもつものは仏陀のような例外的な知者に限定されるだろう。
逆に、想像力の弱い人間は、個体としての自分の死さえうまく想像することができない。
成長し、さまざまな経験を重ね、愛したり、憎んだり、出会ったり、別れたり、得たり、失ったり・・・気の遠くなるほど長い歴程の「後に」、老いたり、病んだりして、いままさに死のうとしているときの「私の気持ち」を想像することができない。
そういう想像力の弱い人間であっても、「死んだ私」を想像すること抜きには、「いまのリアリティ」を確保することができない。
想像力がないために「今の私」とはまったく別の人間となった「私」を想像できない人間が想像する「死んだ私」というのは、「今の私のままの人間が死んだときの私」である。
それは成長も経験も出会いも変化も加齢も何も起こらない「無時間的な人生」が終わる瞬間の私である。
「無時間的な人生」というのは論理矛盾だが、ひとつだけそれを具体化できる契機が存在する。
自殺である。
自殺というのは「今の私」という無時間的存在者が、「今の私ならざるもの」へと私を拉致し去るかもしれない時間を支配し返すための唯一の方法である。
わかりにくくてすまない。
とにかく、「今の私」のままで「私という物語」を最後まで読み終えたいと願う人間には、自殺という方法がある。
あるいは、自殺という方法しかない。
それゆえ、「今の私」であることに固執し、かつ「今の私であることのリアリティの希薄さ」に耐えられない人間は、「今の私のまま死んだ私」という想像的消失点を立てることでかろうじて、今の無意味さと非現実性に耐えることができる。
だから、自殺サイトが繁昌する。
逆説的な話だが、「今この瞬間とやりすごすためには、自殺することを想像するしかない」という事況は「よくあること」なのである。
それは想像力の不足がもたらす出口のないループである。
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