大峰山のことを書いたら、この入山運動の支持者がかかわったサイトがすでに「炎上」しているということを教えて頂いた。
この入山の計画を立てたのは伊田さんという大学の先生で、その人が起草した天川村への質問書というのは次のようなものである。
http://blog.livedoor.jp/open_eyes/archives/50162214.html
まずそれを読んで頂きたい。
ここに転載してもよいのだが、私のブログに「こんな文章」を載せたくない。
お読み頂けただろうか。
この質問書を作った人はそれによって何らかの批評的行為をしていると思っているのだろう。
だがこんな質問書をつきつけられた天川村の人たちがどんなふうに気持ちを損なわれたのか、少しは想像力を働かせることはできなかったのだろうか。
この質問書の内容以上に私はこの文体につよい違和感を覚えた。
ここに横溢するのは「他人を見下した態度」である。
あるいは、口達者な中学生が寡黙な同級生を取り囲んで「笑いもの」にするときの病的な執拗さにも似たものである。
そういう口調が効果的な政治的場面もたしかにあるかもしれない。
けれども、性的禁忌やジェンダー規範と宗教性のような重要な人類学的論件を扱うときにこのような文体を採用することを私はすこしもよいことだと思わない。
この入山運動にかかわったサイトが「炎上」中である。
私はそれを当然だと思うと同時に、困ったことになったと思う。
フェミニズムはいま末期的状況にある。
これは繰り返し申し上げている通りである。
ある種の人権主義や市民派も相当に風向きが悪い。
それは、これらの社会理論が「弱者が『政治的正しさ』をかざしてふるう権力」に対する倦厭感を私たちの社会に瀰漫させたことに原因がある。
いずれ、この倦厭感はこれに類する無思慮な言動をきっかけにして「暴発」することになるだろう。
私がおそれるのは、そのときにフェミニズムや人権思想や市民主義のもたらした「最良の成果」が、「産湯と一緒に」棄てられてしまうのではないかということである。
守るべきものは守らなければならない。
そのためには、フェミニズムやジェンダー理論のうちで「放棄してもよいもの」と「守り抜くべきもの」を識別する作業を誰かがやらなければならない。
それは彼ら自身の仕事だろう。
大峰山の入山運動のようなものはフェミニズムやジェンダーフリー論の死期を早める以外のどのような政治的効果ももたらさないものである。
このような行動についてはきびしい内部批判を加えることこそがこれまでそのような社会理論をかかげて発言してきた人々の知的責務ではないかと私は思う。
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(2005-11-06 09:50)