性的禁忌について

2005-11-05 samedi

昨日の毎日新聞にこんな記事があった。

「修験道の根本道場として知られ、約1300年間女人禁制が続く奈良県天川村の大峰山(山上ヶ岳)の登山口で3日、全国の性同一性障害者ら約30人が、入山を認めるよう地元住民に求めた。初の試みで、住民の反対でこの日の登山は断念したが、改めて話し合いの場を持つことで合意した。」

戸籍上は男性だが、女性として生活しているという入山希望者のひとりは「さまざまな性のあり方を考えるきっかけにしたい」と言っている。
地元の人は「女人禁制は女性差別ではなく先人たちが守ってきた伝統。住民は行者の世話で生活してきた。寺や地元の合意ができるまで待ってほしい」と語っている。
「だんじり」についても先日似たような記事を読んだ。
すべての「だんじり」に女性が乗ることを認めよと訴えた本を書いた人がいて、岸和田の「だんじり」関係者を代表して、江さんが毎日新聞のインタビューに「岸和田では女性の参加は想定していません」と答えていた。
つねづね申し上げていることだが、私はこういうかたちで「性差別の撤廃」を謳う人たちに共感することができない。
彼らが何を求めているのか、正直言ってよくわからないからである。
大峰山に行かれた性同一性障害者のひとびとが修験道を修業して行者としての宗教的境位に達したいと望んでいながら、それが性的条件によって構造的に禁じられていることを嘆いているというのなら話はわかる。
「だんじり」の大工方とか前梃子になって「やり回し」に生き死にを賭ける「お祭り人生」を熱望している岸和田の少女が、祭りのためなら仕事も休む肋骨の二三本覚悟の上だと誓言するなら、江さんだってその純情に心を動かされることだろう。
「女人禁制」は「聖なるもの」についての禁忌である。
性的禁忌は「聖なるもの」を守るために採用された擬制である。
擬制であるということは、その人類学的機能を果たすものであれば、「なんでもいい」ということである。
とりあえず人間たちの共同体では「聖なるもの」への畏怖をあらわす社会的みぶりとしていくつかの禁忌を列挙した。
選ばれたものは世界中どこでもそれほど変わらない。
禁忌となるのは人間たちの世界に「いさかい」や「競争」や「嫉妬」や「羨望」をもたらすものである。
「聖なるもの」は共同体の紐帯を強めるために制度化されたものであるから、禁忌の対象として、共同体を解体しかねない力をもつものが選ばれる。
だから、「欲望」(性欲、食欲、物欲など)を解発する力をめぐって禁忌が構築される。
儀礼において最優先するのは「聖なるもの」に対する畏敬の念であり、それに尽くされる。
性的禁忌が「聖なるもの」を強化し、共同体の紐帯を強める上でどれほど有効であったのか、私にはよくわからない。他の全ての条件を同一にして、性的禁忌のみを解除した場合に「何が起きたのか」を知る方法がないからである。
もっと有効な方法があれば、古代の共同体はそれを選んでいただろうし、これから先の共同体が性的禁忌に代わる新しい方法を思いつけば、それを採用するだろう。
人間はそのようにして儀礼を作り育て、また廃絶してきたと私は考えている。
人類学的に言えば、ある共同体を基礎づけている宗教的な儀礼を否定する場合には、それに代わって、その共同体を一層堅牢なものとして基礎づけるような儀礼を「対案」として提示すべきである。
対案の提示をなさないままに、ある共同体に向かって「お前たちが維持しているのは陋習であるから停止せよ」と告げるのはかなり自己中心的なふるまいとみなされる。
世界には無数の「陋習」があり、無数の性的禁忌がある。
そのひとつひとつに向かって「愚かな真似はやめなさい」と告げて回ることそれ自体が「啓蒙的」な実践たりうると私は思わない。
「啓蒙的」であるためには、つねに「陋習」に代わる、より汎用性の高い、より実効性のある別の「擬制」を提示しなければならないと思うからである。
大峰山の入山希望者たちが、修験道に志し、大峰山の聖性につよく惹かれているにもかかわらず、その性的条件ゆえに入山を拒否されているのだとしたら、この禁忌は修験道の本旨に照らして懐疑せられてよい。
けれども、この入山希望者たちがこの行動をつうじて大峰山をいっそう聖化することを望んでいるということは、この記事からは伝わってこない。
そうだとすると、この人たちは、自分たちの奉じる社会理論の正しさを宣言することの方を、大峰山の共同体の信仰を否定することよりも優先させているということになる。
「性に関わるあらゆる禁忌が廃絶された社会」の到来がもたらす福利は、山村の一共同体の古代的信憑が地元民たちにもたらしている人類学的価値を凌駕してあまりある、というふうに考えているのかも知れない。
だが、もしそうだとするとこの人たちは深甚な論理矛盾を冒していることになる。
それは大峰山が現在も「女人禁制」を維持している例外的な地のひとつだからである。
つまり、地元の人々は性にかかわる「少数派」儀礼を守っている集団なのである。
「性にかかわる少数派儀礼を守っている集団」に向かって、「性にかかわる儀礼は全社会で斉一的に『正しいもの』でなければならない」と宣告する人々がいる。
これは政治的構図としては(賛成はできないが)理解はできる。
私に理解できないのは、ここで彼らの「政治的正しさ」を担保しているのが「性にかかわる少数派的あり方を守っている〈個人〉に向かって、性的ふるまいは全国斉一的に『正しいもの』でなければならないと強制することは正しくない」という社会理論だということである。
自分自身の主張が自分自身の論拠と背馳していることにどうして彼らは気づかずにいられるのだろう。
それが理解できない。
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