ひさしぶりに連続して下川先生のお稽古に通う。
『天鼓』のお仕舞いを「おしまい」まで浚う。
つまみ扇、雲扇、枕扇と、扇を多用し、お水をじゃばじゃば頭から浴びる型あり、飛び返り(実際には飛ばせてもらえないが)が二度もあり、たいへんにカラフルで忙しい舞である。
一通り舞って汗をかく。
よく覚えてきましたね、と先生にお褒めのことばをいただく。
実は私はこういう「型」ものを覚えるのは子供のころから得意なのである。
続いて『弱法師』の謡。
これは説教節「しんとく丸」、文楽の『摂州合邦ヶ辻』、歌舞伎の『摂州合邦辻』などさまざまなバリエーションをもつディープ大阪の不思議な因縁物語である。
ほかの物語はかなりおどろおどろしいが、能の『弱法師』はどちらかというとシックな仏教説話。四天王寺の籬の梅の香や、境内から見える難波の海の夕景など盲目の俊徳丸が見えるように描き出すところがたいへん文学的な名曲である。
私たちはいま「天王寺」というと、「ミナミ」という地名を連想し、ただちに「わしがミナミのマンダだす。うちとこの利息ちいときつうおまっせ」と煙草の煙を吹き出すシルクシャツ姿の竹内力を連想してしまうという出口のないループに幽閉されているが、もともと四天王寺は聖徳太子建立の、本邦最古の寺院であり、浄土教におけるメッカのような聖地だったのである。
室町時代の大阪は「上町台地」という南北にかまぼこ状の台地があり、その西端は海岸線であったという。
その上町台地の南の端の丘陵の上に四天王寺がそびえ立っていた。
つまり、海路日本に到着したとき、大阪湾に入ってまず目に入ったのがこの堂々たる伽藍の屋根だったのである。
いわば、ニューヨークにおける「自由の女神」のようなランドマークだったわけですね、四天王寺は。
その台地が西に急峻な坂となって海に落ちたその海岸線が今日の松屋町筋(「まっちゃまちすじ」と読む)。
そののち台地の北端に石山本願寺が出来て、ここに浄土信仰の二大カテドラルが台地の南北に峨々として屹立することになったのである。
石山本願寺はのちに信長に攻め落とされ、やがてその跡地に秀吉によって大阪城が築城されるのだが、それはまた別の話。
重要なのは、大阪というのは、もともとは上町台地までが陸地で、あとは海だったということである。
浄土信仰というのはご存じのように阿弥陀如来による救済を信じ、西方浄土への往生を願う信仰である。
だから、人々は西を見るのである。
浄土信仰には「日想観」(じっそうかん)という行がある。
日没をみつめる瞑想行である。
日没をみつめるといったら、やはり海である。
「海が見たい、なんて言い出したのはキミの方さ」
と大瀧詠一師匠も歌っている。
「やっとみつけたよ」
「何を?」
「永遠を」
「それは太陽と溶け合う海だ」(C’est la mer allée avec le soleil)
とランボーくんもゴダールさんも言っている。(前日まで「海と溶け合う太陽だ」と和訳しておりましたが、仏文学者がそれでは恥ずかしい・・・)
どなたも日想観をなされていたわけである。
往時の四天王寺西門からはまっすぐ大阪湾ごしに神戸一ノ谷までが見えたそうである。
『高砂』で謡われている通り、高砂の相生の松から大阪湾を挟んだ住吉大社まではかつては文字通り「指呼の間」だったのである。
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(2005-11-02 19:33)