『下流社会』三浦展(光文社新書)を読了。
ここで指摘されている貧富への階層分化の趨勢はすでに苅谷剛彦『階層化日本と教育危機』や山田昌弘『希望格差社会』でもおなじみの知見であるが、新たに出現してきた「下流社会」の意外な相貌を三浦さんはクールに活写している。
階層ごとの行動様式の差を戯画化したものにバブル期の傑作、渡辺和博の『金魂巻』がある。若い人はご存じないだろうし、年配のかたはもうお忘れだろうが、「○金」「○ビ」という二分法が80年代末の日本では一世を風靡したことがあったのである。
その伝でいけば、本書のは三分法で、「○上」「○中」「○下」である。
これまで私たちの社会は「上」と「下」はとりあえず脇に置いておいて、自分たち自身の自画像であるところの「中流生活」をアイロニカルに描くことを伝統としてきた。
国民のほとんどが「中」であった時代であれば、マジョリティを標的しないと批評性はたちゆかない。
だが、時代は変わった。
『下流社会』は「下」をターゲットにして、その風儀をひじょうに皮肉な筆致で描き出している。
これはこれまでの日本の言説伝統には見られなかったことである。
「貧乏自慢」には百鬼園先生や志ん生の至芸があるけれど、「他人の貧乏ぶりを笑う」というのは、どのような立場の人間がするにせよ、あまり品のよいことだとは思われていなかったからである。
ひとつには「貧しき人々」に対する人道主義的な配慮があったからであるし、ひとつには「社会的弱者はその社会の全矛盾の集積点であり、彼らこそが社会のラディカルな改革の主体となるべきである」という左翼的な社会理論がごく最近まで(いまだに?)支配的な言説の地位を占めていたからである。
人道主義も左翼的社会理論も、ふたつながらに影響力を失ってしまい、かつ「下」が消費文化やグローバリズム・イデオロギーの「主導者」であるという現今の特異な市場編制がおそらくは「下流社会」のクールでリアルな描写を可能にしたのであろう。
その「前代未聞」の仕事の中で三浦さんはいくつか掬すべき重要な指摘を行っている。
これは社会批判として(あるいはメディア批判としても)重く受け止めるべきものだろう。
「下」の趣味として三浦さんが引く統計は次のようなものを挙げている。
パソコン・インターネット、AV機器、テレビゲーム、音楽コンサート鑑賞、スポーツ観戦。
どこか「下」なのか?ちょっと不思議に思えるチョイスである。
三浦さんはこれをこう解説する。
「パソコンというと『デジタルディヴァイド』と言われて、お金のある人は持てるが、お金のない人は持てず、よって所得によってパソコンを使えるかどうかに差がつき、ひいては情報格差がつく、という懸念があった。しかし、今やパソコンは接続料さえ払えば何でも手に入る最も安い娯楽となっており、低階層の男性の最も好むものになっているようである。(…) パソコンを所有し、それで楽しむという点では階層差はなく、むしろ趣味がパソコン・インターネットである者は『下』ほど多いというのもまた事実なのである。」(179-180頁)
そして、「下」を表象する「五つのP」を三浦さんは提唱している。
Personal Computer
Pager
Play Station
Pet Bottle
Potato chips
(「ペイジャー」というのはもともと「ポケベル」のことだが、三浦さんは「モバイル通信ツール」というひろい意味でこの語を使っている)。
つまり「下流階層」の肖像として、「パソコンの前に座って、ペットボトルの飲料を飲み、ポテトチップスを食べながら、インターネットをしたり、ゲームをしたり、携帯でメールを打ったりしているという姿が浮かび上がってくるのだ。」(181-2頁)
三浦さんはここで、「彼らは果たして不幸なのか?」という問いを発している。
たしかに日給240円のニカラグアの小作農に比べると、彼らはほとんど「王侯貴族」の暮らしをしていると言ってよい。
客観的条件として彼らは「搾取されている」という説明にどの程度の妥当性があるのか、正直言って私にもよくわからない。
彼らが内的に幸福かどうかは、これはご本人たち次第である。
社会学者は客観的には搾取されていながら、内的には幸福でいられる大衆のありように警鐘を鳴らすが、三浦さんは「それで何か問題でも?」と反問する。
もし「下流」の人々が客観的に恵まれた社会的地位にいないことを受け容れつつ、「その程度の不幸なら瞬間的な盛り上がりやら何やらを介して適当にやり過ごすことができる程度にタフ」(186頁)であるなら、それほど内的には不幸ではないのかもしれない。
ただ、三浦さんが指摘しており、私も危機感を抱いているのは、こうして構造的に発生している「下層民」たちの「やり過ごし」のために企画されている「サッカーワールドカップなど」のメディア誘導型のイベントが過度に「装置化・管理化」されている点である。
先般の総選挙も、そのあとの小泉首相の靖国参拝もある種の「イベント」として功利的に活用されて、若年の「下」たちに強い牽引力を発揮したことは記憶に新しい。
三浦さんも「『下』は自民党とフジテレビが好き」であることを指摘している。
これは数字をお示ししよう。
対象世代は「団塊ジュニア世代」(1973-80年生まれ)。
「上」の自民党支持率は8.3%、民主党支持が16.7%、支持政党なしが75%。
「下」の自民党支持率は18.8%、民主党も同率、支持政党なしが60%。
はっきりと政治意識の階層差がこの世代には現れている。
つまり、階層が下になるほど資本主義的な、競争原理と市場原理、つまり社会的弱者である当の彼ら自身を排除と収奪の対象としている体制をより好むという倒錯が生じているのである。
なお、この統計で用いられている「上」とか「下」とかいう分類はあくまで自己申告による階層区分である。
「あなたの生活レベルは世間一般に比べてどのくらいですか?」という質問に「上」と「中の上」と答えた階層を「上」、「中の中」を「中」、「中の下」「下」と答えた階層を「下」に類別している。
だから、年収800万円で「中の上」だと思っている人もいるだろうし、「中の中」だと思っている人もいるだろう。
階層意識というのはかなりの程度まで主観的な問題なのである。
ジェンダー意識についてもたいへん興味深いデータが示されている。
「男は男らしく、女は女らしくあるべきだ」に「そう思う」と答えたものは「上」で29.4%、「下」で16.2%。
つまり「ジェンダーフリー」的な社会理論は社会的に「下」の階層で支持されているということである。
これはこれまでのフェミニストの考え方とはずいぶん隔たっている。
高学歴で、専門性の高い仕事をして、高収入であるような「勝ち組」の女性の方が、家事手伝いやフリーターの女性よりも「ジェンダー的因習」に対する容認度が高いのである。
これはなかなか興味深い事実である。
社会的に「下」の階層でむしろジェンダー規範が弛緩しているのは、権力、財貨、情報、社会関係資本などを「重要な価値」とみなす支配的なイデオロギーを内面化する傾向はむしろ「下」において強いということを意味しているだろう。
つまり「金がある」ということを無条件に「偉い」みなす人間は、男女の性差よりも「勝ち負け」の階層差の方をむしろ意識するということである。
それが父権制イデオロギーが解体してジェンダーフリーが達成された徴だと言祝ぐフェミニストはおそらくいないだろう。
けれども、繰り返し言っているように、「男女に均等な成功機会を」という提案は、「成功」(端的に言えば「金があること」)こそが至上の価値であるという支配的なイデオロギーに同意することを意味している。
そのようなイデオロギーに軽々に同意してよろしいのだろうかという懸念を私は何度も語ってきたが、あまり賛同の声が得られない。
とりあえず、ある種の「ジェンダーフリー」が現在の支配的イデオロギーをもっとも深く内面化した階層において実現したという統計的事実は記憶しておこう。
もう一つ、これもこれまでに何度か書いてきたことだが「自分らしさ」ということばがキーワードになっていることが「下」の特徴だということである。
団塊ジュニア世代で「個性・自分らしさ」をたいせつだと考えるものは、「上」で25%、「下」で41.7%。「自立・自己実現」は「上」が16.7%、「下」が29.3%。「自由に自分らしく生きる」を人生観として選んだのは、「上」が58.3%、「下」が75.0%。
つまり、下層の若者の方が「個性」や「自己実現」に高い価値を賦与しているのである。
三浦さんはクールに「そうした価値観の浸潤が、好きなことだけしたいとか、嫌いな仕事はしたくないという若者を『下』においてより増加させ、結果、低所得の若者の増加を助長したと考えることができる。」(160頁)と書いている。
私も同感である。
マルクスは『フランスにおける階級闘争』において、客観的にもっとも収奪されていながら、主観的に彼らを収奪する体制イデオロギーにもっとも深く親和している階層を「ルンペン・プロレタリアート」と呼んだ。
レーニンは『帝国主義』において、自らは収奪されている労働者でありながら、植民地住民からの収奪の余沢に浴しているせいで、資本主義イデオロギーを支配階級以上に深く内面化してしまった社会階層を「ブルジョワ的プロレタリアート」と呼んだ。
マルクス、レーニンのような天才でさえ階級理論との不整合にてこずって「別のカテゴリー」を作ってそこにねじ込まなければならなかった社会階層に似たものが現在の日本に発生しているのかも知れない。
21世紀の社会理論家たちは彼らを何と名づけることになるのだろうか。
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(2005-11-01 00:09)