霊的体験とのおつきあいの仕方

2005-10-25 mardi

平川くんの歯茎のことを書いたら、その同じ箇所に炎症が起きて歯茎が腫れ上がってしまった。
共感呪術みたいだ。
口の開け閉めに痛みが伴うので、舌先三寸商売としてはたいへん困る。
前期卒業式に出て、卒業生の名前を読み上げてから、あわてて「現代霊性論」の教室に駆け込む。
30 分ほど遅刻だが、釈先生がそのあいだにニューエイジ・ムーヴメントについて概論的なお話をしてくれたそうである(私も聴きたかった)。
ニューエイジや「精神世界」は「メタ宗教」なのか「もうひとつの宗教」なのか。
釈先生はこれらは「もうひとつの宗教」に過ぎず、既存の宗教を止揚するものではないという立場を取られている。
なるほど。
私は(友人知人に「こっち系」の人が多いせいもあって)、ニューエイジに対してはわりとフレンドリーな立場を取っている。
イルカに触れたり、ヨガや断食や瞑想で霊的な経験をされることを私は人間にとってごく自然なことだと思うからである。
霊が降りてくるとか、悪霊に憑かれるとか、神秘体験をするとか、呪いをかけられるとか、そういう種類の宗教経験は「精神病理」の術語をもちいて「科学的に」説明するか、ある種の詩的幻影のようなものに類別するか、いずれにしても「収まるところに収める」のが近代主義の骨法である。
でも、私はものが「収まるところに収まる」ということがあらゆる場合にベストのソリューションだとは考えていない。
「収まりの悪いもの」がそのへんにごろごろしていても、私は別に気にならない。
つねづね申し上げている通り、どのような理論にとっても「説明過剰」を自制することはたいへん難しい。
その理説が妥当する事例だけに踏みとどまれずに、その理説をむりに適用しなくてもよい事例にまで過剰適用しようとすることで、これまでさまざまな社会理論はその寿命を縮めてきた。
それは畢竟するに「収まりの悪いもの」に対する嫌悪感が過大であることに起因しているように私には思われる。
「よくわからないもの」があってもいいじゃないですか、別に。
「既存のカテゴリーにうまく収まらないもの」は既存のカテゴリーの「刷新」や「改良」を要求する生産的なファクターであって、いささかも嫌うべきものではないと私は思っている。
私自身は自分が奉じている理論(というほどのものもないけど)があらゆる事例をカバーできるなんて思っていない。
だから、その理論ではうまく説明できない事例に出会えば、興味を抱きこそすれ、無視したり、むりやり既知のものと同定したりはしない。
宗教的経験は「よくわからないもの」の宝庫である。
それはさまざまな仮説の生成をうながす栄養豊かな培養基のようなものだと私は思っている。
私がタレント霊術師のような方々を好かないのは、彼らが「話を単純にすること」に固執する点おいて、彼らの対極にある「科学主義者」と双生児のように似ているからである。
たしかに、「水子の祟りです」とか「トイレの方角が悪いからです」とかいうチープな物語に回収されることで救われる人がいることを私は否定しない。
切羽詰れば、人間「鰯の頭を拝め」と言われれば拝むものである。
拝んで治れば、それは正しい治療法だったことになる。
「よくわからないこと」をチープでシンプルな話型に回収することは、緊急避難的には許される。
それは医者が患者に「これで眠れます」とシュガー・コーティングした小麦粉のプラシーボを投薬するのと同じことである。結果的に患者が眠れて健康を回復できるなら、これくらいの嘘は方便のうちである。
だが、「一時しのぎ」はあくまで「一時しのぎ」であり、一般化すべきではない。
それは宗教的体験は「話を複雑にする」ことによって私たちの思考力と感受性のパフォーマンスを上げる絶好の契機だと私が信じているからである。
宗教的体験を(否定するにせよ、肯定するにせよ)「シンプルな話型」に回収するすべての人間に対して私は懐疑的である。
この領域での私の先達は池上先生である。
池上先生は「奇怪なる霊的グッズ」の熱心なコレクターである。
先生ご愛用の「ぐるぐる回るピラミッド」や「チャクラ・オープナー」はいったいどうしてそれが何に効くのか、原理がよくわからない治療具である。
「でも、いいじゃない。効くんだから」と池上先生は笑っている。
池上先生の治療理論はそんなふうに「ドアがあいている」。
「説明できないものは無視する」のでも、「説明できないものをむりやり説明してみせる」のでもなく、「説明できないものは説明しない」という節度が池上先生の思想と技法の科学性を担保しているのだと私は思っている。
池上先生は外国航路の航海士として世界各地で「何がなんだかわけのわからない経験」を山のようにしてきた方である。
その上で、「わからないことがあっても気にしない」とノンシャランスと「経験的に『効く』ことが確かめられたものなら、治療原理がわからなくても使ってみる」というプラグマティズムを身につけられたのだと思う。
そういう中途半端な立ち位置にある人は、中途半端であるからこそ、仮説の提示とその吟味のための実験を厭わないし、実験に耐えない仮説を廃棄することをためらわない。
実験と仮説に対するこの開放的な構えのことを「科学的」というのだと私は信じている。
現代霊性論の授業に一度池上先生においで願って、先生の世にも怪奇な経験の数々をご披露いただき、ついでに学生たちの肩こりや腰痛も治してもらっちゃおかしら。
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