風邪ひき頭で考えたこと

2005-10-18 mardi

げほげほ。
風邪ひいちゃったよ。
土曜日にディープ大阪方面に行ったときにずぶ濡れになって、その翌日は「暑い暑い」とTシャツにクーラーで暮らしていたら、夕方から鼻が詰まってきて、月曜に起きたらばっちり風邪をひいていた。
部長会を欠席して、ぎりぎりまで寝て、4限の「現代霊性論」には這いずってでかけたが、微熱があるので、釈先生との漫談のお相手もままならない。
コナン・ドイルのことで、すごく面白いことを思いついたような気がしたのであるが、うまくことばにならなかった。
私の場合、あらかじめわかっていることを口にするのではなく、口が先に動いて、発語されたセンテンスを聴きながら自分が何を言いたかったのかを事後的に知るという「フライング」システムを採用しているので、「口が回らない」と話にならない。
「口が回る」かどうかということは、私の自己決定や決断や忍耐にまったくかかわりなく、回るときは回るし、回らないときは回らない。まるであなた任せのメカニズムなのである。
熱があったり、体調が悪いときは、ある程度以上複雑な論理構成のセンテンスは語ることができない。
「思考の肺活量」とでもいうべきものがてきめんに減じ、論理の「一回ひねり半」とか「後方二回ひねり」というような屈曲ができなくなるのである。
それでも必死でしゃべっていると、そのへんは甲羅を経た「餅屋」であるから、微熱もものかは、思いもよらぬアイディアが口を衝いて出てきたりすることもある。
昨日は「身体のメインフレームがいかれると、ふだんは知覚や判断には用いない身体部位がやむなくバイパスとして用いられることになり、それを『超能力』と誤認することがある」という説を突然思いついた。
断食をすると感覚が鋭敏になるのは間違いないが、それは断食を長期間続けると、基本的な体力が衰え、生物としては危機的状況になってくるからではないだろうか。
つまり、体力が減じているときは、「敵」と遭遇した場合に、逃走する脚力にしてもとどまっての格闘力にしても、ふだんと同じフィジカルな能力は期待できない。
その場合、知覚が鋭敏化して、「敵」の接近をふだんより早い段階で察知することができるようになることは生存戦略上有利なことである。
春日先生にうかがった話では、精神病患者は体の具合が悪くなると症状が緩寛し、危篤状態になるとしばしば正気に戻るのだそうである。
「健康だから狂気でいられる」という解釈もありうるが、このとき症状が緩寛するのは、「正気に返っている」のではなく、ふだんそのためには用いられていない身体部位(小脳とか脳幹とか)が生命の危機に際会して、「バイパス」として機能し、思考や判断を「脳に代わって」代行していることの効果であるという解釈もありえそうな気がする。
無理かな。
しかし、考えてみれば、人間の体というのは、全体としてひとつのシステムをなしている。
システムのセキュリティを優先的に配慮すると、個々の部位が単機能しか果たせないというのは、どう考えても生存上は不利である。
人間の身体はどこかの器官が機能不全になった場合は、別の器官が一時的にその機能を代補できるようになっているはずである(だからこそ、重要な器官は「ペア」になっているのではないだろうか?)
だとすれば、「苦行」の類は、身体機能の一部を作為的に機能低下させることで、「バイパス」を賦活させ、人間の「使われていない器官」の蔵する潜在能力の高さを覚知させるためのものだと解釈することができる。
人間の身体部位のうちでもっとも大量のカロリーを消費するのは大脳である。
断食は大脳をダイレクトに攻撃する。
その場合には、大脳以外の器官がこれまで大脳が統御してきた活動を一時的に代補しなければならない。
「生体の安全確保」のためにはこれまで大脳が行ってきた仕事のうちでは「外部知覚情報の解析」という仕事が最も優先順位が高い。
とすれば、これまでなら聞こえなかった音が聞こえ、これまでなら見えなかったものが見え、これまでなら感じられなかった気配が感じられるという知覚過敏が生じるのはある意味きわめて合理的な生体反応だといえる。
というようなことを発作的に思いつく。
こういうことを思いつくのも、熱のせいで大脳の機能が低下してきて、脳以外の器官が思考を代行しているせいかもしれない。
なんとか授業だけは終わらせたが、どんどん熱が上がってきたので、5限の体育は SA の白川さんにお任せし、夕方からの学部長会はご無礼して、とっとと家に帰り、パブロンを飲んで寝る。
げほげほ。
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