近鉄大阪線「ウィロビー」駅

2005-10-15 samedi

雨の中を河内小阪の大阪樟蔭女子大へ。
女子大連盟というコアな組織があって、その総会に行くのである。
「ウチダはこういうことに不案内だから」ということを熟知せられている学長室のK安嬢のご配慮で、芦屋から現地までの地図と時刻表がちゃんと送られている。
その指示に従って順調に鶴橋まで来る。
しかし、そこで、「近鉄奈良線」と「近鉄大阪線」のホームを間違える。
どういう頭の構造によるものか、私は瞬間的に「奈良線」というのは「下り」のことで、「大阪線」というのは「上り」のことではないかと判断してしまったのである。
奈良は「あっち」の方であり、難波や梅田は「こっち」の方である。
ならば「あっち」行きの電車に乗ればよいのだなと考えて、気づかずそこに来た「大阪線」の普通に乗ってしまった。
「河内小阪」は時刻表によれば準急で6分後に到着するはずである。
人文書院から送ってもらった杉田俊介『フリーターにとって「自由」とは何か』を読み続けて、駅につくたびに駅名をチェックするが、なかなか「河内小阪」に着かない。
やがて「俊徳道」とか「高安」とかいう『弱法師』ゆかりの地名が見えてきて、ついに「八尾」に来てしまう。
八尾と言えば朝吉親分の地元である。
準急で6分で着くはずの駅に各停で30分もかかるものであろうか。
そもそも、朝吉親分の地元に女子大があるというのはつきづきしくない・・・と疑団が生じ、立ち上がって路線図を見るが、どこにも「河内小阪」の駅名がない。
私はたしか近鉄に乗ったはずだが・・・どうして。
瞬間的にかつてTVのヒッチコック劇場で見た中でもっとも怖かった「ウィロビー」の物語を思い出す(覚えている人いますか? 怖かったですよね、ウィロビーは「地獄」なんです)
とりあえず最寄り駅で降りて、駅員さんに「河内小阪」というのはいずれの多元宇宙に存在するのでしょうかと青い顔で尋ねて、ようやく真相を知る。
私は布施で乗り換えるべきところを遙かディープ大阪に来てしまったのである。
45分かけて小坂に戻り(ずいぶん遠くまで行ったものである)会場に着いたのは11時。
総会開始時間に30分遅刻してしまった。
遅刻者は私ひとり。
会議室で全員の冷たい視線を浴びながら、ずるずると指定席にはいずって行き、臨席の原田学長と東松事務長に陳謝する。
到着時には議事の第二号議案の審議中であった。
静かに議案に賛成しているうちにいきなり睡魔に襲われる。
ここで眠ってはさすが温良なる原田学長といえども、その逆鱗に触れることは必定である。
必死に目をこすって「睡魔退散睡魔退散」と心中に強く念じる。
無事に午前の部が終わり、全員で記念撮影(なんかするんですよ!)をしてから、昼食。
聖心女子大の山縣学長と相席になったので、ミッション系女子大の生きる道についてあれこれと親しくお話しさせていただく。
山縣学長は以前小林聖心(「おばやしせいしん」と読んでください)にもおられたそうで、そういうことなら阪急今津線の隣組である。
震災のときの話につい熱が入る。
話の流れで、東京で震災があった場合に大学はどう対処すべきかという実務的な話になる。
昼間に地震が起きた場合には、学生たちをそのまま帰すわけにはゆかない。
学内に引きとどめて、場合によっては二三日逗留させておく必要がある。
そのための最低限の生活資源の確保はどうすればよろしいのか。
たいへんな問題である。
聖心のような2000人規模の大学ならなんとかなるかもしれないが、早稲田慶応のような数万という大学はどうなるのであろうか。

午後は「キャリア教育」について協議。
女子大におけるキャリア・デザイン教育とエンパワーメントについて議論される。
正直なことを申し上げると、私は「エンパワーメント」とか「キャリア・デザイン」とかいうことばを好まない。
それが女子であろうと男子であろうと、「競争に打ち勝つ力」を大学時代にばっちり身につけ、「かねて予定通りのサクセス人生街道をまっしぐらに進む」というような生き方にリソースを優先的に備給するタイプの人間が好きじゃないからである。
「ウチダさんは男で、父権制社会において権力を享受している側だから、そんな気楽なことが言えるのだ」という反論があるのは承知の上で申し上げるが、私はガキの頃から「出世主義者」が大嫌いである。
日本は欧米に比べて、女性の官僚が少ないとか代議士が少ないとか上場企業経営者が少ないということを「後進性の徴である」というふうに簡単に言い切ることが私にはできない。
それは官僚とか代議士とか資本家というのが無条件に「すばらしいもの」だという価値判断を前提にしてしか出てこないことばだろう。
私はそういう判断には与しない。
中央省庁の女性官僚は、市役所の女性公務員より「偉い」とか、代議士は市会議員より「偉い」とか、上場企業の経営者は街の自営業者より「偉い」とか、軽々に判断してよろしいのであろうか。
昨日の読売新聞に、先日の「ポスト・フェミニズム」についてのインタビューが掲載されたが、私がその中で「男女共同参画社会」のイデオロギーを批判したのは、権力や財貨や威信や情報や文化資本を所有することそれ自体が「善」であることは自明であるとする発想に私が懐疑的だからである。
人間にとってもっとたいせつなものはいくらもあるだろう。
「人間にとってもっとたいせつなものはいくらでもあるだろう」と口走った瞬間に「セクシスト」というラベルを貼られることに私はいい加減うんざりしている。
権力や財貨や威信や文化資本を人生の目的として希求する人間が私は嫌いである。
そういうものを嬉々として希求する人間のことを「アリヴィスト」とか「俗物」とか「ブルジョワ」と呼ぶ、というふうに私はずっと思っていたし、いまも思っている。
今の私がもし人々の目から見て「アリヴィスト」で「俗物」で「ブルジョワ」と映ったとしても、それは私の自己陶冶の努力が足りなかったということであって、そうなりたいと思って営々として努力してきた誇るべき成果であるわけではない。
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