リメディアルな一日

2005-10-13 jeudi

水曜日は教員研修会。
お題は「リメディアル教育」。
リメディアルというのは「補習」ということである。
少子化による「全入」体制と中等教育の瓦解によって、現在大学には「分数の割り算ができない学生」や「英和辞典が引けない学生」がどやどやと入学してきている。
そのような学生諸君に国際共通規格の学士号にふさわしい学力を与えて卒業させるためには、中学高校で「やり残した学課」を大学が補習しなければならない。
情けない話であるけれど、それが日本の大学の実情である。
すでに理科系の大学を中心に入学後に学力に問題のある学生に補習を義務づけているところが出てきているのはご案内の通りである。
昨日の研修会では「リメディアル」の意味を理解してコメントをしていた教員は少数にとどまった。
あれこれ発言していながら、この語の政治的意味をまったく理解していなかった教員もいた。
それは本学では「リメディアル」の切実さをまだ教員が知らずにすませるほどに学生の学力が高いということであろうと私は楽観的に解釈している。
端的に言えば、「リメディアル」というのは戦後の教育行政の失敗の「尻ぬぐい」を誰かがやらなければいけない、ということである。
誰もやらないのなら、おおかたの日本人にとっていちばん最後の教育機関である大学が引き受けるしかない。
こういうときは「どうしてこんなことになったんだ」とか「誰の責任だ」とか言っても仕方がない。
与えられた状況でベストを尽くすしかない。
船が座礁したときに、「誰のせいでこんなことになったんだ」と他責的な文型でことばを連ねても事態は改善されない。それより、手持ちの資材で「座礁した船」をどうやって動かすか考える方が前向きである(と池上先生に教えて頂いた)。
ブリコラージュというのは、こういう「あきらめ」方のひとつの様態でもある。
で、手持ちの資材でオレたちには何ができるの?
そう考えることにしよう。
だって、「オレたち」がやらなかったら誰もやってくれないんだから、リメディアル教育なんて。
私の意見は「座礁した船」を救う場合と同じである。
使えそうなものは救い出す。使えないものは棄ててゆく。
「すべて」を救うことはできない。
だって、もう「座礁」しちゃってるんだから。
ありあわせの資材を集めて「救命筏」を組み、積み込める限りの資産を救うしかない。
「リメディアル教育が必要な事態に立ち至った高等教育から〈最良のもの〉として何を救い出せるか」という戦略的な問いを最優先すべきだろうと私は思っている。
とりあえず教育者の良心として、私たちのもとにやってきたすべての学生は「救うべき最良のもの」を潜在的に有しているものと考える。
彼らに対して大学はいくつかのオプション(「命綱」だね)を提示する。
それをつかむ学生は「筏」に乗れる。
それをつかまない学生は「筏」には乗れない。
非情なようだが、教育資源に限界がある以上(それは救命ボートの「空き席」と同じことだ)、「救える見込みがある」学生にリソースを集中しなければ、全員「共倒れ」である。
私たちの教育資源はまだ十分に余裕があるし、学生たちはそれぞれに「最良のもの」を蔵しているということを私は信じている。
全員がにこやかに「筏」に乗れることを私は願っている。
問題は、私たちが「筏」だと思っているものに果たしてどれほどの航行能力があるか、ということである。
ぐったりと疲れて帰宅してから「文献ゼミ」の二年生の学生たちの書いた夏休みのレポートを一週遅れで添削する。
一読して喫驚。
たしか数時間前に研修会の席で「大学生の日本語運用能力は破滅的な状態です」というようなことを私自身も口走ったのであるが、どのレポートもすごく面白い。
文章にたしかな精神の力を感じる。
誤字もないどころか私の知らない漢字まで出てくる(思わず広辞苑を引いてしまった)。
これは学生たちの知力を侮ったことの天罰なのかそれとも天佑なのか。
むろん天佑と解すべきなのであろう。
ああ、ありがたいと神に感謝の祈りを捧げながらレポートを読み続ける。
そこに平川君から「東京ファイティングキッズ」の19便が送られてきたので、さっそくご返事を書く。
さらさら。
--------