母からファックスが届いた。
数日前私がこのブログに書いたことへの感想のおことばである(79歳になる母はもちろんパソコンなどには触らない。私のブログ日記を兄ちゃんがプリントアウトして毎週母のもとに郵送しているのである)。
おどろいたことに、私と同時期に母も朝日新聞の購読を止めたのだそうである。
私はうまれてからずっと朝日新聞というヘビー・リーダーであることは先般記したとおりである。
ということは母もそれ以上に長期にわたる忠実なる朝日読者だということである。
その母が次のように書いてきた。
「結婚して以来六十年近く、新聞は朝日しか読んだことがありませんでした。朝起きて、顔を洗って、何よりも一番に新聞を隅から隅まで広告まで目を通すのが日課ですが、この頃、何か朝日を読んでいると気分がよくなかったのです。むつかしい意味はわかりませんが、何か腹が立って来るのです。」
そして、母は私とほとんど同じ日に「やめよう」と決断し、毎日新聞に換えることにしたのである。
私のブログを読んだ後ではなく、ほぼ同時に母も数十年にわたる購読を停止したのである。
「余りに面白い一致だったので一応ご報告します」
と母のファックスは結んであったが、これはかなり重要な徴候ではないかと私は思う。
先週、NHKから電話取材のオッファーがあったときに記者のS田くんと1時間くらい話し込んでしまったが、そのときに「メディアに対する不信」をメディア自身が払拭する努力を怠っているのではないか、ということを申し上げた。
朝日新聞は今回のNHK放送事件、捏造記事事件などでメディアへの信頼性を深く損なったけれど、それ以上に自己正当化の言を口走って「自己批判・自己点検」する能力のなさを露呈したことが致命的であったと思う。
おそらく朝日は現有の800万読者のうち200万くらいをこの2,3年のあいだで失うのではないか、という予測を話した。
もちろん当のNHKの受信料もがた減りしていて、信頼回復の見込みもない。
「朝日・岩波・NHK」は戦後日本の「良識」のセンターラインを形成してきたはずのメディアであるが、それらがいずれも機能不全に陥ってる。
岩波は別に不祥事を起こしたわけではないが、『世界』の発行部数は悲惨な数字となっている。
60年代には『世界』と『朝日ジャーナル』は「ちょっと知的な高校生」の必須アイテムであった。
私は過去十年間『世界』を読んでいる高校生に会ったことがない。
以前、高橋源一郎さんが岩波の編集者に「『世界』がぜんぜん売れないんですけど、何かいい企画はないですか?」と尋ねられたことがあるそうである。
高橋さんはしばらく考えてから、こう答えた。
「『世界の罪』というのはどう? 戦後論壇で『世界』が世論をミスリードした事例すべてについて、詳細な自己点検と自己批判をして『申し訳ないことをしました』って謝罪するの。これなら毎月20万部は売れるんじゃない?」
もちろん編集者は取り合わなかった。
だが、さすがタカハシさん、これはばらしい企画である。
人間知性の信頼性は「おのれの誤りを他人に指摘されるより前に発見すること」に優先的にリソースを注ぐということ、ただそれだけによって担保されている。
兄ちゃんによれば、ビジネスの場合もそうだ。
すぐれた経営者は、自分が開発したビジネスモデルの限界を、誰よりも先に発見する。
みんながまだまだ「これでいける」と言っているときに、「いや、これはもういずれ使えなくなる」と見て、大胆に「撤収」を宣言できる経営者だけが生き延びることができる。
逆に、まわりが「社長、もうこれはいけません」と諫言しても、自分がつくりだしたビジネスモデルに固執する経営者は遠からず自滅する(最近も印象的な事例があったことはご案内のとおり)。
『世界』が『世界の罪』を真摯に自己剔抉する勇気と知性を示せば、ブランドの信頼性は一気に回復するだろう(私だって定期購読する)。
母が書いた「何か腹が立ってくる」という感覚は、コンテンツにかかわる苛立ちではないと思う。
そうではなくて、「メディアがこんな状態で、ほんとうにいいんだろうか? 読者視聴者にいずれ見捨てられるんじゃないだろうか・・・」というまっとなジャーナリストなら当然抱いてよいはずの不安が、いまのメディアからは感じられないからである。
親からは勘当され、友人知人も離れだしているときに、左団扇で、「なあに、なんてこたあねえよ」と冷や酒くらって、「どうでえ、みんなでこれからナカへでも繰り出そうじゃねえか。なあに勘定なら心配いらねえよ」と大見得を切っているお気楽若旦那を見ていると「むかっ腹が立ってくる」というような種類の腹立ちを母は感じたのではないだろうか。
私はメディアの復活に対しては、基本的には楽観的である。
『唐茄子屋政談』の若旦那がわずか一日の「唐茄子売り」経験で真人間に戻ったように、「まっとうな商売を一からやり直そう」と決断しさえすれば、朝日だってNHKだって岩波だって、また「メディアの王道」を粛々と歩み始めることができる。
私はそう信じている。
だから私は、当今はやりの「メディア叩き」には加担する気がない。
一度腐りかけたシステムを「まっとう」な道に戻すことの方が、すべてを壊して新しいものを作るよりずっと困難な仕事であり、ずっと人間的な仕事だと私には思われるからである。
でも、そのためにはみなさんには「唐茄子売り」をやって頂かないとダメなんだけれど、果たしてメディアの方々にはそれがどういう「ふるまい」を意味するのかがわかるだろうか?
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(2005-10-05 10:08)