現代霊性論の二回目。
これはご案内のとおり、釈徹宗先生と私の「漫才形式」の講義で、われわれの日常生活に瀰漫している無数の霊的現象について、これを宗教学的=現象学的=精神分析的アプローチによって解析しようという教化的な授業である。
第一回の先週は期待していたほどに学生が集まっていなかったが、二週目に入って、「おもしろいよ」と口コミで伝わったのか、先週より十数名受講者が増えていた。
学生諸君にしてみたら、まことにお気楽にして生産的な授業である。
私のオカルト=ヨタ話(猫の霊に祟られた話とか、UFOを見た話とか、岡田山の風水の話とか)を片方の耳で聴きながら、反対側の耳では釈先生の正統的な宗教学の講義も聴けるのである。
二度目の今日は釈先生による「霊性」概念の宗教史的解説から始まったのであるが、私がたちまち横やりを入れて、「塚」というのはありゃ「墓」のことですよね。ところで、このあたりには「塚」のつく地名が多いのですが、そういうところに住むと・・・というところから始まって、「名」による呪、場の力、スピリチュアル・カウンセリング、桑村先生仕込みの「目の動きによる人格三分類法」・・・と話頭は転々奇を究めて能くここに叙することができないのである(知りたい人は本を買いましょう)。
90分ノンストップの「漫才」を終えたあとに、釈先生が、「これをよそでやったら、ずいぶんお客が入ったでしょうね」とぽつりと漏らされた。
たしかに朝カルあたりで同じことをした方が私どもの労働時間あたりの単価は高そうである。
しかし、あえてクローズドの教育活動としてやることによって「内輪のギャグ」が暴発という利点もあるわけで、これはなかなか同日には論じがたいのである。
釈先生は「おみやげ」に「麻雀マット」をご持参くださった。
前回の甲南麻雀連盟発足記念大麻雀大会の唯一の瑕疵は「麻雀マット」が整わなかったために、手積み作業においてぼろぼろと牌をこぼすケースが見られたことである。
だが、「麻雀マット」というようなものがどこで売られているのであろう?
トイザラスにはなかった(ほとんど「けんもほろろ」という口調で私どもの質問は却下されたのである。「はあ? 麻雀マット? なもんありません。」まるで「厚揚げあります?」と訊かれたアンリ・シャルパンティエの売り子のような表情であった)。
ホームセンターにもなかった(麻雀マットは「ホーム」の構成要素には算入されていないのである)。
家具屋にもなかった(麻雀マットは「家具」としては認定せられていないのである)。
どこにあるのであろうか?
ドクターと越後屋さんと私はしばらく沈思黙考した。
「デパートですかね」
うーむ、だが三宮の大丸に行って、インフォーメーションの女の子に「麻雀マット、どこにありますか?」と訊いて「お客様、失礼ですが『まーじゃんまっと』とはいかなる形状、いかなる用途のものでございましょうか?」と反問されたあとに、私たちが「あ、もう、いいです」とすごすご立ち去る風景があまりにリアルに想像されたために、私たちは車をめぐらせて「今日は何か適当なものをテーブルの上に引いてやりましょう」ということになったのである(写真に写っているテーブルの上のマットは「浴室の足ふきマット」である。さいわい材質といい触感といい、麻雀マットにベストのマッチングであった)。
今後、各自がそれぞれのコネクションを駆使して、麻雀マットをゲットすることを甲南麻雀連盟の最初の責務として確認して散会したのであるが、たちまち釈先生がこれを発見されてきたのである。
とある古店の倉庫の奥に死蔵せられていたものを発掘された由。
あるいはこれが「日本で製造された最後の麻雀マット」かもしれない。
さっそくマットの裏にマジックで黒々と「本台は釈徹宗師よりご雀贈されたるものである。雀友一同この雀恩を末永く語り継ぐことを雀誓する。」
甲南麻雀連盟会員は、二字熟語には「雀」の字を冠しなければならないのである(今決めたんだけど)。
本日の体重74・0キロ(二時間半杖道の稽古したからね)
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(2005-10-04 10:23)