楽しい夜更かし

2005-10-02 dimanche

甲南麻雀連盟が発足することになった。
めでたいことである。
最近の若者は「麻雀」をしない。
うちのイワモト秘書などは「麻雀牌」というものを生で見たのがこれがはじめてだそうで、「こういう大きさのものだったんですか」とぽつりと感想をもらしていた。
『上海』のような麻雀牌を使ったビデオゲームがあるので、麻雀牌というものの形状はデジタルには知っているのであるが、ディスプレイでしか見たことがないので、材質や大きさは想像で補っていたのである。
甲南麻雀連盟は過日、高雄くんの帰国を祝って「氷」を食べているときに、ドクター佐藤から強く提唱された。
「先生、麻雀やりましょうよ」
ドクターはつねに決然とことばを発するので、おそらくその発言の前には長時間にわたる熟慮の日々が横たわっていたのであろう(というふうにみんな考えるのであるが、しばしばそれが「その場の思いつき」にすぎないことを私は知らないわけではない)。
とはいえ、「麻雀を打つ」というのは歴史的に考えても「よいこと」であると言わねばならぬ。
過日、『チャーリーとチョコレート工場』の試写会で、私は観客の95%が女性客であることに心を痛めた。
「若い男性諸君はどこに行ったのだ?」
まさか全員が引きこもっているか秋葉原にいるわけではあるまい。
女性たちはあるいはグループを作り、あるいはペアで、あるいは一人で、映画館のみならず、コンサート、演劇、歌舞伎能狂言、バレエ、オペラとあらゆるエンターテインメントの場を闊歩されている。
そういう場で「男性たちのグループ」を見かけることはほとんどない。
これはどういうわけなのか。
少なくとも若い男性が「つるんで」遊興的な行動するという習慣がなくなりつつあることは事実である。
困ったものである。
私たちの若い頃は(55歳となって、このような定型句が大手をふって使えるようになったことを私はたいへんうれしく思う)、男たちはしじゅうつるんで街場をのたくっていた。
どうしてつるんでいたかというと、「さっきまで麻雀をしていたから」、あるいは「これから麻雀をするから」、あるいは「麻雀をしたいけどメンツが足りないのですることがないから」、あるいは「麻雀をしていたんだけれどメンツが足りなくなったのですることがないから」というケースがたいへん多かったように思う。
例えば、夏場に海水浴に行くとか冬場にスキーに行くとかいうとき、私たちは必ず「四人」以上のメンバーを整えたものである。
土壇場になっても三人しか揃わないときには、「誰でもいいから、つれていこうぜ」ということになり、スキー旅行出発前夜に電話がかかってきて「ウチダ、何も言わずに明日から蔵王に一緒に来てくれ」というようなオッファーがなされることも一再ならずあったのである。
そのような切迫したリクルート活動の結果、私たちは「よく知らない連中」「友だちの友だち」のような方々としばしば長旅をともにすることになった。
もちろん、自宅で麻雀を行う場合も、メンツを揃えるためには好き嫌いを言っている余裕はない。
結果的に私の家には(私の家は自由が丘という足場のよいところにあり、格好の「雀荘」であった)、私が帰宅すると、見知らぬ数名の若者たちが「あ、お邪魔してます!」と麻雀を打っているということがしばしばであった(私の友人が私の留守宅を訪れ、しばし麻雀を打ったのち、彼の友人たちを残して去ってしまったのである)。
私は彼らを歓待し、お茶を出したり、ラーメンを作ってあげたり、ジャズのLPをかけて挙げたり、しばしば大量の点棒を献上して、富裕な状態にして送り出したりしたものである。
それは私たちの社交性を高める上でも、またコミュニケーションの訓練の上でも、友人のネットワークを構築する上でも、すくなからぬ貢献をしたのではないかと思う。
その美風はおそらく70年代の半ばを機に失われた。
私はそれを惜しむべきことだと思う。
「タツル、今度麻雀やんない?」
と兄ちゃんが私に告げたのは、昨年五月、日本海に沈む赤い夕日をみつめながら、塩の味のする山形の湯野浜温泉の露天風呂に浸かっているときであった。
「兄ちゃん、オレもいまそう言おうと思っていたとこなんだよ!」
私たちはかつて自由が丘のポップな若者たちの間で「まむしの兄弟」と異名された性悪な麻雀打ちであった。
あれから25年、私たちは久しく牌を握っていなかった。
どういう風向きで麻雀が復活することになったのか、その内面のざわめきを私はまだことばにすることができぬ。
だが、兄の伝言を伝えるべく、「ねえ、今度麻雀やんない?」と平川君、石川君に告げたときの彼らの顔に輝いた「光」を私は忘れることができない。
彼らもまた四半世紀牌の手触りを忘れていたのである。
「極楽温泉麻雀」がそのような経緯で復活したことはブログでもすでに述べた。
しかし、私たちよりずっと若い世代の間から澎湃として「麻雀復活」の声が上がってきたことを私はたいへんうれしく思う。
昨日午後、合気道の稽古のあと、ドクター佐藤はクールな声で兵庫県合気道連盟の総会での議事の報告をしたあとに、ふと「先生、今日、麻雀やりません?」ときっぱりとした声で私に告げたのである。
「いいけど、誰と?」
「タニグチさんがその気になってるんです」
「でも三人じゃない」
「探します!」
そして、かつて私たちをさまざまな無思慮な行動に走らせた、焦がれるような「四人目探し」を開始したのである(携帯電話というものが「メンツ探し」にこれほど効果的な利器であることを私ははじめて知った。1970年に携帯電話が存在していたら、私はおそらくあのときに投じた10倍の時間を麻雀に費やしていたであろう)。
麻雀をやるためにはまずわが家にまず麻雀牌、卓、座椅子を購入するところから始めなければならない。
そのあとの私たちの行動は驚くほど迅速であった。
三時間後、わが家は新品の牌、卓、座椅子、ドリンク、おにぎり、煙草、CDなどのセッティングを終え、メンツにはドクター、越後屋さん、『ミーツ』の江さん、如来寺の釈先生と五名が集まっていた。
「あら、二抜けで『ミーツ』の原稿書けるじゃないですか!」と私は喜悦の声を上げたのである(ちなみに私の『ミーツ』の締め切りはすでに一日過ぎていたのである)。
そして、「楽しい夜更かし」の幕は切って落とされた。
詳細については割愛させていただくが、午前3時過ぎ、すべてが終わったあと、冷たいビールと白ワインを喫しつつ、江さんも釈先生もは何度も何度も「ああ、おもろいなあ。最高やなあ。たのしいなあ」とつぶやきつづけていたのである。
十月一日はこうして「甲南麻雀連盟」発足の日として末永く記憶されることとなった。
さあ、これから毎月やるぜい!

「楽しい夜更かし」に集う甲南麻雀連盟の面々(みんな嬉しそう)
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