態度の悪いバースデイ

2005-10-01 samedi

Happy Birthday to Me
というのはウディ・アレンの『ハンナとその姉妹』の中で、誰も誕生日を覚えていくれていないのでダイアン・キートンが台所でひとりで泣きながらケーキを食べているときに口ずさむ歌である(という話は前もしたね)。
映画ではサム・シェパードが(例の前歯のスキマをきっちり見せる笑いとともに)台所のドアをノックして登場して、意外にハッピーな展開になるのである。
私の55歳の誕生日の夜もひとりでポトフを作ってぱくぱく食べて、『タイガー&ドラゴン』のDVDを見ているうちに終わってしまった(長瀬智也くんは芝居がますますうまくなってきた。「間」がよい)。
55歳といえば、源氏鶏太や石川達三のサラリーマン小説の時代であれば、停年退職の年である。
会社を辞めて、静に庭いじりなどをしなければならない年回りである。
『サザエさん』の父、「磯野波平さん」はマンガの設定では54歳であるから、ウチダはついに「波平さん」よりも年上になってしまった。
感無量である。
さまざまな方からバースデイ・プレゼント、バースデイ・カードを頂いた。
まとめてお礼を申し上げる。
ウチダのような態度の悪い男の行く末を気づかって下さって、どうもありがとう。
みなさまの負託に応えて、ますます世を騒がせる方向に純化してゆくことを改めてここにお誓い申し上げたいと思う。

55歳になったので態度をいっそう悪くしようと決意したところに朝日新聞の集金が来たので、「アサヒは明日から入れなくていいよ」と宣言する。
販売店のお兄ちゃんが「え、どうしてですか?」と困惑するので、「君が悪いのではない。アサヒの紙面がどうも気持ちが悪くて、朝新聞を取りに行くのが苦痛になってきたのだよ」と事情を説明する(これではわからないだろうが)。
わが家は生まれたときから朝日新聞で、私自身もずっと朝日新聞一筋のヘビー・リーダーなのであるが、その私が「もう読みたくなくなった」というのだから、ここ数年の朝日の紙面の質的低下はかなり顕著なものと言わねばならぬであろう。
コンテンツが悪いと申し上げているのではない。
「語り口」が気に入らないのである。
「イデオロギッシュ」なのである。
「イデオロギッシュ」といっても、偏向しているとか左傾しているとか、そのようなレベルのことを申し上げているのではない。
問題はコンテンツじゃないんだから。
内容ではなく、そのコンテンツの「差し出し方」が私の疳に障る、と申し上げているのである。
どのような問題についても「正解」があり、それを読者諸君は知らぬであろうが、「朝日」は知っているという話型に対する膨満感が限度を超えたのである。
もちろん、どのようなジャーナリズムもこの話型を採用しているし、「あなたが知らないことを私は知っている」というプレゼンテーションの仕方がビジネスでも教育でも医療でもきわめて効果的なものであることを私は知らないわけではない。
しかし、ものには限度がある。
こういう「技」はピンポイントで「ここ一番」というところで決め打ちで使うからこそ効果的なのであって、のべたんで紙面全体に「朝日は正解を知っている」というワーディングが瀰漫すると、さすがにうんざりしてくるのである。
前にも申し上げたことであるが、どのような社会理論にもそれがぴたりとあてはまる論件と、あまりうまくあてはまらない論件とがある。
その場合に、うまくあてはまる論件にのみ理論の適用を限定して、あまりうまくあてはまらない論件については適用を自制するというのはたいせつなマナーである。
そうすれば社会理論の信頼性はかなり「食い延ばし」が効く。
マルクス主義にしてもフェミニズムにしても、その全能性を過信して、適用しなくてもいい問題についてまで過剰適用したことによって理論としての生命を濫費してしまったと私は見ている。
「これについてはよくわからないので、判断を保留します」という節度は、メディアの生命にとってもたいへん重要なことである。
レヴィナス老師はかつて哲学の本務は「難問に回答することではなく、難問の下にアンダーラインを引くことである」と述べられたことがある。
メディアのマナーもそれと同じだと私は思う。
「資料が整い合理的に推論すれば答えることのできる問い」と、「材料が揃っていても軽々には答えの出せない問い」と、「おそらく決して人間には答えの出せない問い」については三色ボールペンでアンダーラインを引き分けるくらいの節度はメディアも持たなくてはならない。
ジャーナリストが決して口にしたがらないことばは「わからない」と「すみません」である(もし、はじめて会って五分以内にこの二語を口にしたジャーナリストがいたら、その人は信頼してよろしいかと思う)。
しかし、おのれの知力の限界についてクールな自己評価ができないもの、おのれの誤謬を他人に指摘されるより先に発見することに知的リソースを備給できないもののことばをいつまでも信じ続けられる者はいない。
朝日の後はしばらく毎日新聞を取る予定である。
朝日を止めて読売を取るというのも、朝日を止めてサンケイを取るというのも、どちらも定型的な反応でよろしくない。
「ビートルズとストーンズとどっち好き?」と問われたときは「デイヴ・クラーク・ファイヴ」と答えるのがナイアガラーの骨法であると大瀧詠一師匠はおっしゃっていたのでその風儀に従うのである。

つづいて同日午後にNHKから取材の申し込みがある。
お題は「少子化問題」。
電話をくれたのは若い記者の方で、少子化問題を論じるときの政策やメディアの議論の枠組みがどうも「変だ」という気がするのですが、「変」ですよね?というお尋ねである。
もちろん「変」である。
第一に、少子化問題の前提にある「少子化は問題だ」という発想そのものが不当前提である。
第二に、少子化の影響として年金、医療、労働力、老人介護といった「金」の問題しか誰も語らないのが変である。
少子化が問題だと言っている人々は、今のシステムを「現状のまま」に(政府のサイズも医療も教育も福祉も新幹線も高速道路もダムもこのままに)維持してゆくと、人が足りない金が足りないから「たいへんだ」と騒いでいるのである。
だが、人口が9000万人になったらどうして困るのか?
人口9000万人のときには、社会のサイズが人口9000万人規模であれば誰も困らない(現に、1950年代には「人口が少なくて困った」などと言う人間はどこにもいなかった)。
人口9000万人で人口1億3000万人サイズの今の社会システムを支えようとすれば破綻するのは当然である。
ヨーロッパの先進国がどれくらいの人口かご存じであろうか?
フランスは人口6000万、ドイツは8200万、イタリア5800万、イギリス6000万、スペイン4000万。
どの国からも「国民の頭数が少なくて困った」というような話は聞かない。
左翼の政論家がよく理想として語る高福祉国家北欧諸国の人口はそのような規模ではない。
スウェーデン898万人、フィンランド521万人、デンマーク512万人、ノルウェー457万人である。
つまりスウェーデンが神奈川県、フィンランド、デンマークが福岡県、ノルウェーは静岡県(380万)と世田谷(80万)を足したくらいの人口サイズなのである。
はっきり申し上げるが、高負担高福祉というような社会政策は「おたがいの顔が見えるサイズの社会」でしか実現できないのである。私の払う高額の税金は「この人たち」を支えるために費消されているのだということが実感される規模の共同体でなければ、高負担高福祉のようなことはできない。
そういうことは国の規模が小さいからこそ可能なのである。
日本のような大きな社会であれば、いくら税金を払っても、それが「困っている人たち」の手元に届く前に、介在する無数の官僚機構や特殊法人や中間組織によって費消されてしまう。
その不合理に日本人はうんざりし始めている。
だからこそ、「大きい政府にノー」という決断をこのたびの総選挙で有権者は下した。
どの評論家もそう評価している。
私も同感である。
ではなぜ少子化という趨勢が「大きな国にノー」という国民の審判であるとはお考えになれないのか?
それが私にはわからない。
民意というのは投票によってのみ示されるものではない。
日常の生活態度そのものを通じて民意は日々示されている。
日本国民は総意として「ダウン・サイジング」を選択した。
私はそう理解している。
少子化は「問題」ではなく「民意」である。
どうしてフランスやドイツ程度のサイズの国になることが未曾有の国難のように騒がれるのか、私には理解が届かないのである。
というような話をラジオですることになった。
朝の五時台の放送だそうである。

本日の体重74.8キロ(74キロの壁は厚い)
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