後期始まる。
愚痴を言っても仕方がない。始まった以上は肚を括って、にこにこ笑ってやるしかない。
初日には会議が三つ、授業が二つ。
講義科目は「現代霊性論」。釈徹宗先生との合同講義というか、漫才形式の哲学=宗教学講義である。
学生の前で、ふたりで霊性にかかわる現代的なトピックをかたっぱしから論じ尽くそうという企画のものである。
本学はキリスト教の大学であるから、もちろん宗教関連科目はいくつも開講されているのであるが、現実の大学生たちが日々の生活の中で経験している宗教問題(呪鎮、祟り、占い、霊感、超能力、喪の儀礼、死者とのコミュニケーション・・・)といった生々しい論件は必ずしも主題的には論究されていない。
しかし、私たちが生きている現実は「物語」として編成されており、そこで私たちは悪霊を恐れ、死者の祟りを鎮め、呪詛を送りまた祓い・・・という宗教的なみぶりを繰り返している。
どれほど科学的な人であっても、「人間は死んだらただの有機物だ」と言って、親の屍骸を「生ゴミ」に出すというようなことははばかる。
そこに何かに対する「冒涜」を感じるからである。
では、その「冒涜」の感覚において、その人は何を冒し、何を穢していると思っているのか?
手足をばらばらに切り刻んで「生ゴミ」に出しても、定型的な葬儀を通じて死体を処理しても、最終的に重油で焼かれて灰になることに変わりはない。
どこが違うのか?
問題は有機物の処理ではなく、かたちに見えない「何か」が死体に帯同しており、それをどう扱うかを配慮することを私たちは回避できないからである。
私たちはその「何か」を明示的な言語で名指すことはできない。
できなくて当たり前なのである。
その「名指し得ぬものを畏怖する」能力を獲得したことを通じて、人間はサルと分岐し、人間性を基礎づけたのだから。
「それ」そのものはどのような意味でも evidence-based な学術の対象にはならない。
私たちができるのは、人間が「それ」をどのように「避けた」(つもりになっている)のか、どのように「鎮めた」(つもりになっている)のか、それを考究するだけである。
いわば、透明人間が雪の上に残した足跡をたどって、透明人間の「歩き癖」を推測するようなものである。
しかし、これはこれで一つの学問であると私は思っている。
本日の現代霊性論はいきなり「靖国問題」から入る。
政治と宗教、近代的霊性と前近代的霊性、ナショナリズムとコメモレーション、呪詛と名付け・・・といった本質的な論点がいきなりばりばり出てきてしまったので、私と釈先生は学生のことをほとんど忘れて熱い議論に耽る。
学生たちはしんと水を打ったようになって、誰ともなく、ノートを取り出して必死になって二人の会話を書き写し始める。
やっぱり大学の授業というのはこうでなくちゃね。
ほとんどの学生たちは、知的高揚というものを「見たことがない」。
見たことがないものはなかなか自分では経験できない。
知的に高揚している人間の身体がどのように変容するのか、表情がどう変わり、肌がどう紅潮し、声がどう響きを変え、場の空気がどのように密度を増すか・・・ということは、現場に居合わせないとわからない。
逆に言えば、現場に居合わせさえすれば、(たとえ内容が理解できなくても)身体的に同調することで、知的高揚感というものは共有されるのである。
教壇から講義しながら、なお知的に高揚するというのはたいへんむずかしい(できないことではないが)。
二人いると、そこに対話が成立する。
意見の微妙な食い違いがあり、ことばの解釈の違いがあり、発見があり、創造がある。
この合同講義、合同演習という形式の有用性をずいぶん前から主張しているのであるが、同僚の方からはあまりはかばかしい反応がない。
ふつうの方は傍らに自分と考え方の違う人間がいると、気分が悪くなるのかもしれない。
この「現代霊性論」講義録は「インターネット持仏堂3」として、本願寺出版社から出版される(かもしれない)ので、”魔性の女” フジモトくんが聴講に来ている。
さっそく本日分の録音MDをお渡しする。
これはきっと面白い本になりそうである。
釈先生よろしくお願いしますね!
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(2005-09-27 09:35)