『別冊文藝』の大瀧詠一特集号の対談の校正を片づけてから、『街場のアメリカ論』の校正を一日で終わらせる。
あああ、疲れた。
大瀧さんとの対談での私の発言は「へえ」とか「なるほど」とか「そ、そうなんですか」というようなものばかりなので、校正ではそれを「へへへへえ」「な、なーるほど」「そそそそそそうなんですか」というふうに「しゃっくり唱法」的に音韻をふやせばいいだけなので、たいへん楽ちんである。
すぐに終わる。
『街場のアメリカ論』の方はいったいこれがまともな研究書なのか、トンデモ本なのか、書いた本人には判定できない。
読み返しても、やっぱりよくわからない。
わかるのは、非常に多くの人がこの本を読んで腹を立てるだろうということだけである。
「物議を醸す」というようなレベルに止まらず、「罵倒の十字砲火を浴びる」「学者生命の終わりを宣告される」「読んだらバカになると断定される」「ついに馬脚をあらわしたと嘲弄される」といったかなりアグレッシブな反応が予想されるのである。
NTTのM島くんがあれほど「この本はいいです」と断言されるのは、内容がいいという意味ではなく、批判の嵐、ネガティヴ・キャンペーンが全国展開されるおかげでNTT的にはパブリシティにお金を使う必要がなくてラッキーという意味だろうと推察される。
なにしろ考えられる限りの領域のアメリカ研究者の「虎の尾」を踏みまくっているんだから、そりゃ関係者のみなさんはさぞやお怒りになるであろう。
英米文学関係の友人は多いが、彼らとて、この本を一読したあとは、私とは二度と口をきいてくれまい。
あの寛大なるナバちゃんでさえ、「ウチダさん・・・これはひどいよ」と絶句されるであろう。
まちがいなく私の書いたなかではいちばん態度の悪い本である。
なにしろ、私はアメリカ論のシロートであるから、どんなことを書いてもアメリカ研究関係の学界から放逐される気遣いがないのである(学界にメンバー登録されてないから)。
「このようなろくでもない本を決して読んではならない」という批評を関係者各位から受けた場合にも、ご存じのとおり、読者というのは「読むな」と言われると「そこまで悪口を言われる本なら、いちおう後学のために読んでおこうか・・・」というふうな反応をするものであるから、批判はさらなる災厄を広げることになりかねない。
唯一クレバーな反応は「無視する」ということである。
しかし、ここまで態度の悪い人間を「無視する」だけでは、煮えくりかえった腹はなかなか収まるものではない。
結局は、どのように怜悧な論者も批判のことばを禁じ得ないのである。
そのときの批判は「まさにウチダの語り口こそは日本人に典型的なアメリカに対する無意識的な悪意と欲望が露出したものに他ならない」という語形をとらざるをえないのであるが、この本は「日本人がアメリカを語るときにどのような無意識的な語り口を採用することを強いられるのか?」という問いについて日本のみなさんいっしょに考えましょうということをご提案しているので、その切り口からの批判は私を喜ばせるばかりなのである。
となると事実誤認をきびしく指摘するくらいしかやることがないのであるが、残念なことに本書は、南北戦争で南部が勝った場合の20世紀世界とか、ワイアット・アープは『ギャツビー』を読んだか?とか、『スターシップ・トゥルーパーズ』を日本で映画化したらこんな映像になるはずであるとかいう、誰にも論証することも反証することもできない「起きなかった出来事」についての話で埋め尽くされているので、事実関係の反証もなかなか容易なことではないのである。
といふうに人を怒らせるだけ怒らせておいて、振り上げた拳のやり場をみつけるの一苦労、という構成をして「態度が悪い」と申し上げているわけである。
『街場のアメリカ論』はNTT出版より10月中旬発売。
「世間をなめて生きる」人間の末路を知りたい方は必読だ!
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(2005-09-22 21:25)