ブルーな火曜日

2005-09-21 mercredi

ついに学校が始まってしまった。
ひさしぶりにスーツにネクタイを締めるが、そんな日に限って暑い。
9月末なのに朝から28度もある。
一ヶ月ほど中身を見ていなかったブリーフケースに、携帯電話、名刺入れ、眼鏡、『街場のアメリカ論』のゲラ、手帳、メモリースティックなどを詰め込むと「豚を丸飲みしたアナコンダ」のような形状になる。
とぼとぼ炎天下を歩いてパーキングへ。
私のベーエムは部屋のほぼ7フロア分真下に鎮座しているのであるが、マンションからパーキングへの直行エレベーターがない。
乗り換えのエレベーターは建物を半分回らないと乗れないのだが、そのエレベーターも午前10時から午後8時までしか動いていない。
朝早いときと夜遅いときは遙か遠くの階段を利用しなければならないのであるが、この階段が怖い。
細くて暗くて曲がり角がいくつもあって途中に鉄扉が二つもある。
つねに無人であるので、曲がり角で出会い頭にジェイソンに会ったら、ひとはそのまま心臓発作で死ぬであろう。
前に一度、夜遅くにその階段からおりようとしたら、ちょうど私の前を歩いていた若い女性が私と同じパーキング入り口のドアを開けた。
自分が閉めたドアをすぐ後から来た男がまた開けて、背後から無人の階段をコツコツと足音を立てて降り始めたのであるから、その方の恐怖はさぞやと思われる。
こちらもはやく車のところに行きたいので、数メートルの距離をだんだん縮めてしまう。
鉄扉の前では恐怖のあまり先方の頭髪が逆立っているのがわかった。
とはいえ、こちらも「お嬢さん、怪しいものではありません」と話しかけるのもはばかられる(そんなことを言うといよいよ怪しいし)。
さぞや肝を冷やしたとは思うけれど、私のせいじゃないんです。

大学へ行って、本日はAO入試の書類選考と院試。
総文の40名ほどの志願者の「志望理由書」と「自己推薦文」を読んで、評価をしてゆく。
こういう書類の書き方はむずかしい。
「可もなく不可もなし」という書き方では志願者が多い試験では、試験官が同じようなものばかり読まされているうちにしだいにいらだってくる。
では、がんがん言いたい放題書けばいいかというと、「そういうのはキライ」という試験官に当たるとおしまいである。
むずかしいものである。
私としては、自分の好きなように書いて、それで合格すれば、その学校とは相性がいいということだし、好きなことを書いたら落とされたというのなら、相性が悪いということで、ご縁がない方がご本人にとってもむしろしあわせだったというふうに考えたらよろしいのではと思う。
院試は志願者が少ないので採点も面接ものんびりして楽ちんだったが、志願者が少なくてうれしいというのは私学の教員は思っても口にしてはならないことである。
5時過ぎまで働いて、採点仲間のF庄学科長、A木入試課長と大学の次期戦略についてあれこれと相談。
いきなりたいへんシビアでリアルな話になる。
そうだ、大学にいるというのはこういう身も蓋もない話をするということだったのだ、ということを思い出す。
髪の毛を染めたクボちゃんが遊びに来たので、中途半端な社会復帰はダメです。もっとまじめに休みなさいと説教する。
ひとに説教しているのか、自分に言い聞かせているのかわからない。

休み中にメールボックスを突き破るほどたまった本と手紙をかかえて、よろよろと家に帰る。
その中の一冊、岸田秀・三浦雅士の『靖国問題の精神分析』を読み始めるが、岸田先生、なんとなく元気がない。
岸田秀の「共同体のアイデンティティは自我のアイデンティティと同型的である」という洞見には25年ほど前に腰を抜かすほど驚愕した記憶がある。
社会有機体説というのは、人間は社会構造をつくるときも自分の身体構造以外にモデルにするものがないという考え方で、岸田理論はそれを転倒してみせたわけであるが、まさに問題はご指摘のとおりこれがループをなしているということである。
つまり、社会構造は人間の身体構造をモデルに構築されているのだが、その人間の身体構造の方も、自分を含む社会構造をモデルにしてイメージされているのである。
現代日本の社会構造は中間的な共同体が解体して、二極化が進行しているが、これはそのまま現代人の自我イメージと重なっている。
個人の身体においても緩衝帯としての「中間的なもの」が消失して、権力、情報、威信、資本が「脳」に集中し、「身体」はメカニカルな操作対象の地位に転落している。
つねづね申し上げているように、脳と身体を二極化するのはすでにひとつの「物語」であって、実際には脳は身体の一部であり、身体はすみずみまで脳化されていて、二極分化ということは「現実」にはありえない。
私の脳は「あんこもの」を食べると活性化し、眠くなったり過度の飲酒をした場合にはまったく非活性的になる。
おなじように、私は身体の不調をつねに外在的な「病魔」がイノセントでピュアな私の「身体」を侵略するという「物語」に即して解釈している。
脳はフィジカルな器官であり、身体は物語を生きている。
にもかかわらず、脳と身体の二極化ということが「実感」としてリアルであるという事実は、社会階層の二極化が(まだ現実化していないにもかかわらず)すでに「実感」としてリアルであるという事実と並行している。
ある種の政治イデオロギーが身体変容さえももたらすということは現実にしばしば起こる。
きわめてファナティックな政治イデオロギーの持ち主はやはり奇形的な身体をしている(過度に病的であるか、過度に健康であるかどちらかである)。
健全な社会理論の持ち主は、原理的に「弱い敵との共生」ということを優先的に配慮しているので、たいていは「軽度の疾患」や「軽度の不全」とうまくネゴシエイトする身体を持つようになる。
「一病息災」という俚諺があるが、これはほんとうの話で、「めんどうな身体的な不全」とやりくりしながら生きている人は「めんどうな他者」とのやりくりにも同じ技法を適用することができる。
「息災」を「破局の到来をたくみにヘッジすること」という意味と解するならば、まさにそのとおりなのである。
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