哀愁のポスト・フェミニズム

2005-09-16 vendredi

Y売新聞からインタビューの申し入れがある。
テーマは「ポスト・フェミニズム」。
おどろいて
「もう、フェミニズムは終わってしまったんですか?」
と訊いたところ、電話口の記者さんは怪訝な声で、
「だって、『フェミニズムはもうその歴史的使命を終えた』ってウチダ先生書いてるじゃないですか」
あれは戦略的にそう書いているだけですって。
「・・・はもう終わった」というのはいかなる意味でも理説への内在的批判ではない。
「言ってみただけ」である。
にもかかわらず、この「・・・はもう終わった」というのはきわめて毒性の強い評言であり、誰かがぽつりとその一言を言うと、その「誰か」が市井の、無名の、その批評性がとりわけ評価されているわけでもない人間であった場合でも、「そ、そうか・・・もう終わっちゃったのか・・・」ということが何となくしみじみと実感されるのである。
そして、メディアがにぎにぎしく報じるまでもなく、この「何となく的実感」は日本全国津々浦々に燎原の火のごとく、あっという間にひろまってしまう。
「・・・はもう終わった」プロパガンダの伝播力は恐るべきものである。
どうしてそういうことになるのか、その理路をご説明しよう。

私が「フェミニズムはもうその歴史的使命を終えた」と書いたとき、メディア上、論壇上、学術上、フェミニズムはいまだたいへん隆盛であった。
だが、「隆盛であるもの」には必ずコバンザメのようなタイコモチのような、「支配的な理説の提灯を持ってえばりちらすやつ」が付きものである。
フェミニズムがその威信の絶頂にあるときに、どのような反論批判にも「男権主義者」「父権制主義者」「ファロサントリスト」と鼻であしらって済ませる、頭の悪いコバンザメ的論客がそこらじゅうでぶいぶいいわせていた。
彼ら彼女らに対する倦厭感はそのときすでに社会全体に伏流していたのである。
これはフェミニズムの罪ではない。
支配的な社会理論には、それがどのようなものであれ、必ずそれを教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する「寄生虫」が付着する。
もちろんフェミニズム内部でも激しい相互批判や党内対立はあった。
今はサード・ウェイブ・フェミニズムだと言われているから、すでに先立つ二つの「偏向」(あるいは「先駆的形態」あるいは「修正主義」)は駆逐されたらしい。
けれどもそれがこの「寄生虫」を駆除するためのものであったことはない。
駆逐されたのはつねに主観的には純良なるフェミニストであり、彼らを石もて追い出すようなバッシングの主力部隊はつねに「寄生虫」たちによって編成されていた。
フェミニズム内部の理論闘争はご存じのようにたいへん非寛容で苛烈なものであったが、それはそのつど新たに登場した「より過激な理論」がほとんど一瞬にして勝負を決めるというかたちで終熄するのがつねであった。
「あとからやってきた理論」が短期間に多数派を形成するという経験を繰り返しているうちに、フェミニズムは「新しいムーブメントに乗ること」の生存戦略の有利さを論証してしまった。
結果的に、これがフェミニズム自身にとって命取りとなったと私は思う。
フェミニズムの実働部隊であり、提灯持ちであったコバンザメ諸君は、まさに「落ち目の党派的立場をいち早く見捨てて、勝ち馬理論に乗る」ことの政治的な正しさを刷り込まれてしまったからである。
この手のコバンザメ諸君にいちばん効くのが「・・・はもう終わった」というさりげないひとことである。
彼らは「当節のはやりもの」にいちはやくキャッチアップする流行感度に知性の有り金を賭けているから、バックステージで「こそっと」呟かれるひとことにきわめて敏感に反応する。
私が「フェミニズムはもう終わった」と書いたのは、フェミニストに告げたことばでもないし、アンチ・フェミニストに宛てたことばでもない。
「フェミニズムももう終わったしね・・・」ということばを誰に言うと出もなくつぶやいたのは、フェミニズムの旗振りをしていれば当面飯櫃の心配はしなくてすむと思っていたコバンザメ野郎たちの耳元においてである。
彼らはこういうことばにはほんとうに敏感である。
もし私が「フェミニズムを終わらせなければならない」と言ったのなら、彼らとて耳を貸しはしなかっただろう。
彼らは「遂行的言明」には興味がない。
彼らが耳を傾けるのは「事実認知的言明」だけである。
「終わった」という風聞を聞きつけたコバンザメは、気づかれないように、さりげなく、「主人」のもとから逃げだそうとする。
開票日当日の選挙事務所で、開票速報の結果がわかるにつれて「事務所は重苦しい空気に包まれています」という状態になると、一人また一人と事務所から消えてゆく人間がいる。気の利いたやつは開票が始まる前の、「出口調査」の数字が出たあたりで姿を消して、対立候補の事務所に、まるではじめからそこにいたような顔をしにゆくのである。
フェミニズムはいまこの「敗色濃厚な選挙事務所」のように見えている。
実際にそうであるわけではなく、そう見える人間の目にはそう見えているということである。
いち早く「次のトレンド」に乗ろうとしてフェミニズムを去る人々は要するにただのコバンザメ野郎であるから、こんなものはいてもいなくてもフェミニズムの本質とは何のかかわりもないことである。
フェミニズムはこのような権力追随的な人々が消え去ったあとに、むしろその本来の生成的な運動に戻ってゆくことができるだろう。
私が懸念するのは、「このような人々」がいなくなったあとに「じゃ、いまからフェミニズム運動再建しましょう」と振り返ってみたら、そこにはもう誰もいなかったということになりはしまいかということである。
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