池上先生との一日

2005-09-15 jeudi

池上六朗先生との『身体の言い分』のトークイベントがあるので、東京へでかける。
学士会館にバッグを放り込んでから、半蔵門線で表参道へ。
この辺の地理はもうぜんぜんわからない。
おのぼりさん状態で青山ブックセンターを探す。
途中で森永さんと会って、「こっちでいいのかしら」と言いながら会場へ。
入り口でキモノすがたの中野さんがお出迎え。
池上先生とは先日「牡丹園別館」でお会いしたばかりで、来月も三宮で三宅先生主催の出版記念パーティがあるから、毎月お会いして治療をしていただけるのである(池上先生の治療は基本が立位なので、「あ、こんにちは」の次にはすぐ治療が始まる)。
毎日新聞社の出版部の偉い方々と名刺交換をして、暑いですねーと仕事の前にとりあえずカンパリソーダを飲んで勢いをつける。
タイトルのことが話題になったので、「『あ』ではじまって『ん』で終わる5ないし7モーラのタイトルがよい」という白石=藤本理論をご紹介する。
今回のタイトル「からだのいいぶん」は、「ka」ではじまって「n」で終わる8モーラ(8モーラは5/7/5リズムでは7モーラと同じ効果がある)なので、だいたい理論通りである。
NTTの本は『街場のアメリカ論』で「ma」ではじまって「n」で終わる。
文春の本は『知に働けば蔵が建つ』で7/5。
角川の本のタイトルはぜひきっちり理論通りにつけたいものである。

対談が始まる。
別に段取りについては決めていなかったので、ふだんのおしゃべりと同じように、「先生、あのですね、おとといのことなんですけど・・・」というふうに話し始める。
たいへんフレンドリーなオーディエンスだったので、気楽におしゃべりしているうちに、あっというまに1時間半が経つ。
そのあと買って頂いたみなさんにサイン。
140名の会場で120名の方がサインのために列を作ってくださった。
ありがたいことである。
手もちぎれよとネコマンガを描き続ける。

それから毎日の仕切りで青山のイタリアン・レストランへ打ち上げへ。
増田聡くんご夫妻と増田くんの友人のライターのオバタカズユキさん(私は初対面)を同道する。
池上先生の不思議なお話を聴きながら、たいへんに美味なるイタリアンを賞味し、一同大満足。気がつけばはや深更。
池上先生にお会いして触っていただいたあとは、いつも眠りが深い。
学士会館で9時までみじろぎもせずに爆睡。

アシュラム・ノバへ。
今度はじっくりと30分以上も池上先生に治療していただく。
肩胛骨も骨盤も相当に歪んでいたけれど、「許容範囲の病み方」というお言葉をいただいてひと安心。
おしゃべりしているうちに時分時となり、赤羽先生もごいっしょにお隣のハイアットにご飯を食べに行く。
40階のレストランで東京を見下ろしながら「天丼」を頂き、昼からビール。
歓談すること2時間近く。
いつものように治療して頂いた上にごちそうになり、たいへん幸せな気分で帰途につく。
新幹線に乗ると、たちまちまぶたが重くなり、京都まで爆睡。
池上先生と長い時間ごいっしょさせていただいていると、そばにいるだけでも心身がリラックスしてくるのがわかる。
「年上の男の人」で、その人には「気を遣わなくていい」という人は少ない。
なんとなく「気兼ね」であるとか、「気を張る」というのならまだしも、「甘やかす」というか「ご機嫌をとる」ということをしないといけない人が多い。
池上先生にはまったく気を遣わないですむ。
それはたぶん先生が「自分のしたいことしかしない」人だからである。
先生が「治療にいらっしゃい」とか「ご飯食べに行きましょう」とお誘い下さるということは、先生ご自身が「ぜひそうしたい」と宣言されているということであり、それが社交的修辞であったりリップサービスであったりするという可能性は排除してよろしいのである。
これは気楽。
「先生、こんなことしているけれど、退屈してるのかな」とか「ほんとうはもう帰りたのに、義理でつきあっているのかな」とか、そういう気配りは無用なのである。
池上先生は退屈するような場には決して行かないし、義理で何かをするというようなことは先生の辞書にはない。
「わがままな人は周囲をリラックスさせる」ということはあまり知られていないが真実なのである。
逆に「無用な気遣いをする人は周囲を緊張させ、しばしば不愉快にさせる」ということもあまり知られていないので、ここに大書しておくのである。
私もひとを不愉快にさせることについては人後に落ちないが、それは「無用な気遣いをした」せいではなく、ひとを不愉快にさせようという犯意がある場合に限られるからよろしいのである。
というわけで、池上先生を師表と仰いで、ますます「わがまま道」を邁進する決意を固める今日この頃のウチダなのである。
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