毎日新聞に次のような総選挙総括を寄稿した。
投票日前にいくつかのメディアから選挙の見通しを訊かれたときは「小泉首相圧勝」と当然のような顔で答えたけれど、これほどの議席数は想定外だった。
この結果については、首相の手法を評価する声が高い。私も首相が「先手を取る」ということについてほとんど天才的な感覚を有していることは認めなければならないと思う。
「先手を取る」ということばを「相手より早く動く」ことと理解している人がいるけれども、これは正確ではない。武術的な意味での「先手」は物理的な速度や時間とは関係がないからである。
目の前にいる人が「そうすることによって何をしようとしているのかがわからない」ときに、私たちは頭上に「?」を点じたままに、その場に凍り付いてしまう。これが「居着き」と呼ばれる状態である。「居着く」というのは、「相手は次にどう出るのか?」という待ちの姿勢に固着してしまうことである。一度、この状態に陥ったものは相手から「答え」が届くのをひたすら待つことしかできなくなる。これが「先手を取られる」という必敗の様態なのである。
首相は今回「郵政民営化、是か非か」というただひとつの切り口で選挙戦を展開した。これが「先手」であったと私は思う。というのも、まさにメディアや野党が力説してきたように、「郵政民営化」がほんとうは何を意味するのかが誰にもよくわからなかったからである。
公務員の削減なのか、資金の民間還流なのか、族議員の政治基盤への攻撃なのか、構造改革のとば口なのか、アメリカへの身売りなのか・・・ただひとつの政治課題にさまざまな解釈が与えられた。そして、そのどれが「正解」であるかを、メディアも野党の政治家も首相が「ほんとうのことをいう」のをじっと待ってしまったのである。
「あなたはそうすることによって何をしようとしているのか?」と問う人間は主観的には合理的な対応をしている。にもかかわらず、「謎をかけた」相手に先手を取られて、必ず負ける。合理的にふるまうことを通じて負けた人はこの「不条理な敗北」を合理的な仕方では受け容れることができない。岡田民主党代表の党の大敗をみつめる「不可解」な表情にその苦悩はよくにじんでいたように思う。
小泉首相のこの「先手必勝」の手法には若い有権者に強くアピールする要素があったように思われる。それは「負け犬を叩く」という嗜虐的な傾向である。
自民党の若い公募候補たちが党公認を得られなかったベテラン政治家を次々と追い落としてゆく風景に若い有権者はひそかな快感を覚えたはずである。
「弱者は醜い」、「敗者には何もやるな」。これが今回の選挙を通じて小泉首相が有権者に無言のうちに告げたメッセージである。そして、この「勝者の非情」に有権者たちは魅了されたのである。
毎日新聞では最初、私に連絡がとれないままに最終パラグラフの「弱者は醜い」をカットしたが、夜の9時過ぎに連絡がついたときに「その箇所を削られては意味が通らない」と申し上げたらまた原文が復活したそうである。
だから地域によって文面が違っている。
(と書いたのちに毎日新聞の担当記者からメールがあって、実際は輪転機にかけられる寸前に私に連絡が取れて、「残しておいてください」という私の要望を容れてくださったので、全国どの版でも同一文面だそうである。勘違いしてすみませんでした)
「弱者は醜い」という「勝者の美意識」に大都市圏の「弱者」たちが魅了されたという倒錯のうちに私はこの時代の特異な病像を見る。
先日書いたように、「弱者を守れ」という政治的言説はいままったくインパクトを失っている。
その声を「既得権益」を手放そうとしない「抵抗勢力」の悲鳴として解釈せよと教えたのが小泉構造改革のもたらした知られざる心理的実績である。
「野党」がそろって「守れ」を呼号するという逆説が示したように、いま日本の「革新」勢力はかつてロシアの共産党がそうであったように「守旧派」に類別されている。
それは「弱者」という看板さえ掲げればドアが開くという状況に対する倦厭感があらゆるエリアで浸透しつつあることを意味している。
自分がトラブルに遭遇すると、まず「責任者を出せ」と他責的な口調ですごむ「弱者」たちに私たちの社会はいま充満している。
そして、その「弱者の恫喝」に苦しめられている人々もまた「弱者」戦略のブリリアントな成功を学習して、別の局面では自分もまた「弱者」「被害者」「無権利者」の立場を先取りしようとする。
弱者であること、被害者であること、無権利であることはしばしばそうでない場合よりも多くの利益をもたらすということを学んだからである。
その「弱者の瀰漫」に当の「弱者」たち自身がうんざりし始めている。
当然のことながら、「弱者が瀰漫する」ということは「社会的リソースの権利請求者がふえる」ということであり、それは「私の取り分」が減ることを意味するからである。
「弱者に優先的にリソースを分配せよ。だが、それを享受する『弱者』は私ひとりであって、お前たちではない」と人々は口々に言い立てる。
この利己的な言い分に人々は(自分がそれを口にする場合を除いては)飽き飽きしてきたのである。
「弱者は醜い」という小泉首相の「勝者の美意識」はこの大衆的な倦厭感を先取りして劇的な成功を収めた。
開票日翌日の朝日新聞のいしいひさいちの漫画はこの選挙結果が「勝ち組・負け組の二極化からボロ勝ち組・ボロ負け組の二極化」への移行を意味しているということを正しく指摘していた。
こうるさく権利請求する「負け組」どもを、非難の声も異議申し立てのクレームも告げられないほど徹底した「ボロ負け組」に叩き込むことに国民の大多数が同意したのである。
日本人は鏡に映る自分の顔にむけてつばを吐きかけた。
自己否定の契機をまったく含まないままに「自分とそっくりの隣人」を否定して溜飲を下げるというこの倒錯を私は「特異な病像」と呼んだのである。
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(2005-09-13 11:26)