『水曜どうでしょう』ばかり見ていたらダジャレが止まらなくなった

2005-09-09 vendredi

『街場のアメリカ論』脱稿。
最後の最後に、「まえがき」と「第一章」を大幅に書き換える。
まえがきに書き足したのは、このあいだのハリケーンについての日本のメディアの報道に伏流する、なんともいえない「お気楽」な気分について。
みなさんも気が付かなかっただろうか。
新聞記事やニュースキャスターがアメリカの防災体制の不備や、州政府連邦政府の動きの悪さや、人種差別や略奪を報道するときの、なんともいえない「軽い」調子に。
他国の社会的機能の破綻と国威の失墜をこれほど「うれしげ」に報道する国民的メンタリティーはいったいどのように構造化されているのか。
これは一考に値する主題である。
昨日書いた「まえがき」の最後の一部を採録しておく。

日米関係にかかわるメインストリームの政治的言説は「アメリカへの従属なしに、アメリカからの独立はありえない」というねじれたロジックを戦後六十年間繰り返してきた。それ以外のすべての言説もまた(経済を論じる場合でも文学を論じる場合でも映画を論じる場合でも音楽を論じる場合でも)、ひとしく同一の話型を忠実になぞっている。
それは誰に強いられたものでもなく、私たち日本人が進んで選び取ったものである。
私たちが「アメリカの圧倒的な力」と思いなしているものの一部は明らかに私たちが作り出した仮象である。それに抗うことができず、ただそれに依存し、ただその恣意に身を委ねることだけが私たちに選択できる唯一の生存戦略であるような「強大なもの」は、おそらくそれを欲して止まない私たちの側の懇請に応じて呼び出されているのである。
他国への従属のうちにのみ自国の独立の可能性を見るという背理的なナショナル・アイデンティティの持ち方は、アメリカが日本に「押しつけた」ものではない(どのような国もそのような「物語」を軍事力によって他国民に「押しつける」ことはできない)。それが可能ならアメリカはとうに全世界を「日本化」することに成功しているだろう。日本人はこれを自分で選んだのである。
私は本書で、この「従属」の諸相について語ることになるが、その私自身もまた「従属」を通じての「自立」という日本人に固有のねじれた語り口以外に使うことのできることばを持っていない。
私は本書の中でアメリカの政治、アメリカの文化、アメリカの社会構造を辛辣に批判するけれども、それは「こんなことを言ってもアメリカ人は歯牙にもかけないだろう」という「弱者ゆえの気楽さ」がどこかにあることで成立する種類の辛辣さである(中国や韓国の政治や社会を論じる場合なら、私はもっと慎重になるはずである)。
その種の「気楽さ」は私だけでなく、日本人の語るアメリカ論のすべてに伏流している。
私がこの「まえがき」に校正の筆を入れているのは二○○五年の九月中旬であるが、先般アメリカ南部を襲って被害者推定数千人といわれるハリケーンについての日本のメディアの反応に私が感じるのはその徴候的なまでの「気楽さ」である。日本のメディアはアメリカ社会が機能不全に陥り、防災体制が破綻し、被災地で略奪やレイプが行われているという事実をほとんどうれしげに報道していた。たぶん報道している記者やキャスターは気づいていないのだろうけれど、その表情には「主人の屋敷が焼け落ちるのを眺めている小作人の気楽さ」に類するものが漂っていた。
この「従者」のメンタリティーはおよそ日本人の語るすべてのアメリカ批判を覆い尽くしている。どれほど真摯なアメリカ批判も、このどうしようもない「気楽さ」の刻印をどこかに貼り付けている。それは他ならぬこの私がアメリカを救わなければならないという責務の感覚をもってアメリカを論じている日本人が構造的に存在しないということによる。
日本人はアメリカに対して実に多様な感情を抱くけれど、決して日本人がアメリカ人に対して抱くことができないのが、この「保護者の責務の感覚」である。アメリカの抱えるさまざまな問題について、アメリカ市民以上に当事者責任を感じ、アメリカの「善きもの」を死守することに賭け金を置く日本人は存在しない。
もし倫理というのがレヴィナスの言うように、「他者に代わって/他者の身代わりとなって受難すること」をその究極のかたちとするというのがほんとうだとすると、日本人の心性はアメリカに対して決して倫理的になることができないように構築されている。
日本人はアメリカを愛することもできるし、憎むこともできるし、依存することもできるし、そこからの自立を願うこともできる。けれども、アメリカをあたかも「異邦人、寡婦、孤児」のように、おのれの幕屋に迎えることだけはできない。「アメリカ人に代わって受難する」、「自分の口からパンを取りだしてアメリカ人与える」ということだけはどのような日本人も自分を主語とした動詞としては思いつくことができない。
日本人はアメリカ人に対して倫理的になることができない。
これが日本人にかけられた「従者」の呪いである。この呪いをアメリカ人がかけたのか、日本人が「かけられた」と思っているだけなのか、そのことはもう問題ではない。呪いが現に活発に機能しているということだけが問題なのである。
自分はアメリカに対して倫理的にかかわっていると思っている日本人もいるかも知れない。そういう方には失礼なことを申し上げたと思う。でも、私にはそんな真似はできない。私がアメリカを批判するとき、そこにはアメリカ市民に代わって、救国の処方箋を書き挙げなければならないという責務の感覚はまったくない。私は中国に対しても韓国に対しても、あるいはフランスやドイツに対してももっと「親身」になることができる。けれど、アメリカにだけはそうなることができない。
唯一の救いは、私は自分がそういう視点に釘付けにされ、そういう語り口を強いられていることについての「病識」を持っているということだけである。

以上。
どうして日本人はアメリカに対して「親身」になれないのか?
それについて長い長い分析がこれに続くのである。
『街場のアメリカ論』、なかでも「アメリカの子供嫌いの文化が生み出す〈子供嫌い映画群〉分析」と、「巨大ロボット漫画の説話構造にひそむ日米関係の〈ねじれ〉の分析」は、書いた本人が言うのもなんであるけれど、面白い。
「たいへんに面白い」と言っても過言ではない。
書いた本人が思わず息を呑んで「で、それからどうなるの?」と手に汗を握ってしまうというくらいに面白い。
『街場のアメリカ論』はNTT出版より、10月発売!
これは買わないとね(昨日と言うことが違うじゃないか)。

一冊脱稿したし、最後の最後になって「まえがき」にエッジの効いたオチがついたので(「まえがき」というのはいちばん最後に書くもんなんです)、たいへん気分がよくなり、一月半ぶりにスーツを着てネクタイを締めて、天王寺都ホテルにでかける。
本日は「大阪皮膚科症例検討会」という専門学会での講演である。
なぜ私が皮膚科の先生がたを前にして講演をしなければならないのか、私にはよく理由がわからない。
「これまでどういう方が講演をされたのですか?」と伺ったところ、「前回の講師は皮膚科の先生です」という当然のお答えが帰ってきた。
そりゃそうでしょう。
皮膚科の学会なんだから。
私に講演を依頼した井上先生を除く会場の方々はどなたも私が講壇に立っている理由がわからず、講師自身もまたわかっていないという状況において講演はスタートしたのである。
しかし、よくしたもので、人間の頭というものは、自分がその場にいる理由が「たいへんよくわかる」場合よりも「よくわからない場合」の方が回転速度が上がることになっている。
当然ながら、「私がその場にいる理由」をいままさに現場において投企的に構築してゆかないと、私がその場にいる理由がまるでなくなってしまい、講壇を下りておうちに帰らないといけないからである。
今回の主題は「EBM はほんとうにエヴィデントか?」という、医療関係者に対してはいささか挑発的なものである。
EBMというのは Evidence Based Medicine のことで、要するに、医師は実証的根拠のある治療法のみを選択すべきであるという考え方である。
これは池上先生の方法とちょうど逆になっている。
池上先生の治療原理は「なんでもいいからとりあえず、前と状態を変えてやればいい」ということである。
エヴィデンスなんかラ・フランス(洋梨)である。
病人の身体からはいろいろな「ひも」が出ている。
それをどれでもいいからひっぱってみる。
どれかが「あたり」で、「あ、治りました!」とご本人がいうなら、それでオッケーということである。
「鰯の頭は新人から」と俚諺にもいう(これは「鰯の頭のようなカルシウムの豊富な部位は、若い人たちにまず食べてもらおう」という意味である)。
病気にもっともふかく関与しているのは病人自身の「疾病への意思」である。
これは局所的・器質的な失調ではなく、「意思」にむかって働きかけなければならない。
というわけでレヴィ=ストロースの『野性の思考』における呪術的医療の有効性から説き起こし、ポランニーの暗黙知論、ソシュールのアナグラム論、ラカンの原因論、村上春樹の「うなぎ説」などをご紹介したのであるが、あまりに「変な」話だったせいか聴衆の中には爆睡しておられる方もあったようである。

家に帰って『水曜どうでしょう』のDVDの6枚目を見る。
「ベトナム縦断カブの旅」
見出すと止まらない。
三宅接骨院の若先生にお借りしたのである。
今年の卒論で『水曜どうでしょう』を主題にする学生がいるのだが、卒論計画書を拝見しても、報告を伺っても、現物の番組を見たことがないので、どうにもコメントのしようがない。
そのことを診療中に愚痴っていたら、『どうでしょう』のヘビー・ウォッチャーである若先生が秘蔵のDVDをご貸与くださったのである。
『サイコロ3』から見始めたのであるが、もうどうにも止まらず、この三日間は『13日の金曜日』を見て、『どうでしょう』で締める、というパターンが続いているのである。
「旅もの」というジャンルについて深く考えさせてくれるたいへんすぐれたTV番組である。
TV侮りがたし。
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