加藤典洋さんの『敗戦後論』の文庫版解説を引き続き書く。
さらさらさら。
長くなるばかりで、さっぱり書き終わらない。
筆を擱いて、お稽古へ。
合気道と下川先生のお稽古、二つ終えてから、家でワイン片手に『チャーリーとチョコレート工場』の映画評を書く。
さらさら。
これはあっという間に終わる。
共同通信から9月のエッセイの原稿まだですかと催促がくる。
これはもう終わっていて、「塩漬け」されていたので、とりだしてちょっと水洗いして送稿。
今日はこれから来週のふたつの講演のレジュメを作成しなければならない。
ダイヤリーをめくって仕事の日程と締め切りを確認していたらゆっくりと気が遠くなってきた。
いったい月末までにどれほどの量の仕事をしなければならないのであろう。
依頼された仕事はどれをとっても断ることのできない種類のものであるが、「断ることのできぬ種類の仕事」も積もれば山となる。
8月以降は仕事の依頼は一つを除いてすべて断った(岩波から頼まれた身体論だけは来年3月末締め切りというので受けてしまった。これは「岩波から仕事頼まれて断れる大学教師はいない」症候群と呼ばれる風土病のせい)。
お断りのご返事には「健康上の理由で」と書いている。
べつに今病気であるわけではないが、こんなペースで仕事をしていたらいずれ病気になることは確実であり、講演会場にはたどりつけず、原稿は落とすということになるから、ここは「健康上の理由」で正しいのである。
断るのに困った仕事のひとつにウチダ本の「ムック」を出したいというオッファーがあった。
これは私が何もしないうちに本が出るという美味しい企画なのであるが、私の本からのコピー&ペーストに図版や写真を入れて本を作るということの必然性がどうしても理解できず、結局ずいぶん苦労してダミーなど作って頂いたのに、お断りしてしまった。
先方はずいぶんわがままなやつだとお怒りであっただろう。ごめんね。
しかし、つねづね申し上げているように、コピー&ペーストやリライトはひとつの創作であり、そのコピーライツはコピペやリライトをした人に属すると私は考えている。
だから、私に気兼ねせずにどんどん出して頂いて、その人の著作ということで発表されればよろしいのである。
私の書いたことのコンテンツに共感されていて、それをひろく宣布したいとお考えであれば、ご自分の名前でコピペ本を出されればよいと申し上げているのである。
私がレヴィナス老師についてやっているのはまさに「そういうこと」である。
『レヴィナスと愛の現象学』も『他者と死者』も全体の85%は「レヴィナス、ラカンのお二方はこんなことをおっしゃっているが、これはこういう意味ではないか」という引用とその解説である。
だからといってこの本を「エマニュエル・レヴィナス/ジャック・ラカン共著」として出すわけにはゆかない。これは断じて私の著作である。
どうしてえばってそういうことが言えるかというと、私の解釈が間違っているからである。
間違った解釈だとわかっていて本なんか出すなとお怒りの方がおられるやもしれぬ。
だが、それは短見というものである。
だって、「解釈が間違っている」ということ以外に研究者にはオリジナリティを発揮する機会がないからである。
正解はどの問いについても一つしかない。誰が読んでもそこに到達するような解釈についてオリジナリティの存在する余地はない。
解釈者の固有性は唯一「誰にも真似ができないような仕方で正解を逸する」ということのうちにしか棲息できないのである。
バカを言うな、自然科学ではそんなことはないとさらに怒る方がおられるかもしれない。
そんなことはない。
どのような精密科学といえども宇宙の森羅万象ことごとくを理論的に解明できているわけではないからである。
世界は謎に満ちている。
宇宙の涯には何があるのか?
ビッグバンの前に時間はどのように流れていたのか?
誰も答えることができない。
だから、あらゆる科学的仮説は「世界についての不十分な解釈」であることを認めなければならない。
そして、科学者のオリジナリティはまさに「彼に固有の不十分さ」を示すというかたちでしか発揮することができないのである。
私が「剽窃」plagiarism ということの犯罪性を自明のものであるように語ることに対して、わりと懐疑的なのはそのためである。
私の書いている考想のほとんどは先賢からの剽窃である。
使っている日本語は私が作り上げたものではないし、私が頻用する修辞やロジックもすべて「ありもの」の使い回しである。
それでもなお私にむかって「ウチダは剽窃者だ」という批判がなされないのは、「先賢の考想を借用」しているつもりでいる私の借用の仕方が微妙に「他の人とは違う」からである。
私は聞いたとおりのことを繰り返しているつもりなのだが、必ずそれは他の聴き手とは違う聞こえ方で私に届いているのである。
この「他の聴き手とは違う聞こえ方」や「他の読み手とは違う読まれ方」を差配しているのは、私自身ではない。
私の中の「他者」である。
「剽窃者」とはこの「私の中の他者」が十分に他者でない人のことである(わかりにくいなあ)。
情報の伝達を汚す「私の中の他者」の未知度が高まると、それは「剽窃」ではなく「霊感」と呼ばれる。
私たちは模倣や反復を脱して真にオリジナルな知見や考想を語ることはできない。
これは原理的に不可能である。
私たちにできるのは、「私たちのうちなる他者」ができるだけ未知のものであることを願うことだけである。
統合失調症の人においては「私のうちなる他者」がたいへんリアルであるらしい。
けれども彼らの「うちなる他者」は「宇宙人」とか「電波」とかきわめて定型的なイメージに固着して、そこから出ることがない。
もし正常と異常のあいだに程度の差があるとしたら、それは「外部から到来する情報を汚す機能」としての「わがうちなる他者」を定型に回収させない、ある種の反発力のようなものの差であるように私には思われる。
わかりにくい話で済まない。
剽窃と霊感の間には程度の差しかない。
程度の差にすぎないけれど、同時に私たちの精神が向かう「方向」の差でもある。
あくまで「既知」を志向する精神と、「未知」に魅了される精神の間に、「剽窃」と「霊感」の、あるいは「狂気」と「正気」の境界線は存在するのではないか。
朝刊に江さんの『岸和田だんじり若頭日記』の書評が出ていた。
評者は鷲田先生。
まことに簡にして要を得た、間然するところのない解説であった。
これで江さんも全国区。
長屋のほかの住人諸君もぜひ江さんに続いてスピン・オフをめざして頂きたいものである。
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(2005-09-04 11:22)