「文春のヤマちゃん本」の「まえがき」を書き終わり、本文の校正に入る。
本文はブログのコンピなので、理路の混乱をふくめて書いたときの「勢い」というものがあって、あとからあれこれいじるとかえって読みにくくなる場合がある。
何しろ似たようなことばかりあちこちでしゃべったり書いたりしているので、だんだん自分の書き物を読むのに飽きてきた。
私のように自分の書き物に対してつねに好意的な評価を抱いている書き手において「飽きる」ということはかなり由々しい事態である。
この手の「コンピもの」が文春、K川、J文書院、C央公論(たしかそうだと思ったが思い違いだったかな)で同時多発的に進行中である。
同時進行ということは、だいたい同時に発売されるということである。
編集者諸君に重ねてご忠告申し上げるが、書いた本人でさえ読み飽きているような類の「同工異曲」というよりはほとんど「同工同曲」の書物を同時期に発売することが営業上あまりクレバーな選択ではないということは芸能界事情を一瞥すれば誰にでも容易に想像のつくことではあるまいか。
それでもなお同時期に同種の書物を並べることにみなさんが固執されるということは、按ずるに、それらすべての本が「大コケ」して、私の本が店頭から潮が引くように消え、すべてのメディアが私のことを忘れるという事態をおそらくは切望されているからであろう。
さすれば、誰一人おとのう人なき静穏な日々が私に再び戻ってくる。
それほどまでに私の心身の健康を気遣ってくださっているとは。
お気遣いありがたくて涙が止まらない。
夕方になったので、梅田まで試写会へ。
テリー・ギリアムの『ブラザーズ・グリム』。
ギリアム7年ぶりの新作ということで、これで『エピス』の原稿を書こうと思い、ちょっと(かなり)期待してでかけたのであるが・・・
多くを言うまい。
ハリウッド映画のフィルムメイカーたちは観客の精神年齢をおそらく12歳程度に設定しておられるのであろう。
たしかに私がいま小学校六年生であれば、『ブラザーズ・グリム』を大いに楽しんだはずである。
『オーシャンズ12』だって『ヴァン・ヘルシング』だってけらけら笑ってみることができたであろう。
大人の鑑賞に耐えないというような言葉は批評的には無意味なのである。
慎もう。
本日はオープンキャンパス。
本学のオープンキャンパスに来られた方がたは「日本一美しい」キャンパスの景観に圧倒されて、そのままふらふらと出願してしまう確率がたいへんに高いので、本日いかに多くの受験生を呼び集めるのがわれわれのがんばりどころである。
私は総文の「ミニ講義」というものを担当して、30分の講義を午前午後の二回行う。
お題は「大学で何を学ぶか?」
「まえがき」に書き連ねた知性論(マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』からお借りしたネタ)で一席伺う。
二度同じ同じネタではつまらないので、午後はe-learningやVODによるいわゆる「ユビキタス大学」構想批判をする。
空間と時間の重要性ということをお話する。
これは暗黙知とも関連するのである。
その前に「暗黙知」ということをご説明しておかないといけない。
私たちの知的活動には「明示的に知っている」というレベルと「暗黙裏に知っている」というレベルの別がある。
例えば「問題」というのがそれである。
私たちが「問題」を立てるのはそれが解答可能であるという「見込み」がある場合だけである。
ソクラテスはかつて「『問題を解決する』という言い方は背理である」と言ったことがある。(メノンのパラドクス)
もし問題を解決できることがわかっているなら、問題は存在しないことになるし、問題を解決できないことがわかっているなら、誰もそれを問題としては意識しないから、やはり問題は存在しないことになる。
多くのパラドクスがそうであるように、このパラドクスも「時間的現象」を無時間モデルに適用することによって背理となっている。
時間というファクターを入れるとパラドクスは解消する。
私たちが問題を立ててそれに解答するというのは「問題を解決できることが暗黙裏にはわかっているが明示的にはわかっていない」という時間的現象なのである。
たしかに私たちは「解答できることがわかっている問題」しか取り扱うことができないのだけれども、「暗黙裏にわかっていること」が「明示的にわかる」レベルに移行するまでには時間がかかるのである。
どんなエリアの研究者でも「この方向に行けば答えに出会える」という直感に導かれて研究を行う。
この直感が訪れないものはそもそも研究を始めるということができない。
けれど、私たちはその直感がどうして訪れたのか、その経緯については説明することができない。
前にマックス・ウェーバーについて書いたように、あることを説明できる能力と、「あることを説明できる能力」がどのように構造化されているかを説明できる能力は別のレベルに属する。
いかなる天才といえども、自分がどうして天才であるかを言うことはできない。
しかしこの「言うことができない」レベルに私たちの知的活動のもっとも重要な部分が含まれている。
ユビキタス大学という構想に私が懐疑的なのは、それが「暗黙知」の活動のための時間と場所を提供することにリソースを供与しようとしないからである。
知的活動とは暗黙知から明示知へ「何か」がレベル変換することに他ならない。
かつてソクラテスはそれを「産婆術」と称した。
知の胎児が産道をくぐってくるためには、逍遙と対話のためのゆたかな空間と時間が必須なのである。
ディスプレイに表示された設問に一問一答的に解答するような学習は理想的にはレスポンス時間ゼロをめざしている。
解答までできるだけ短時間であることを求めるものは、時間について考えたくないからそうするのであるが、時間を捨象しようとするのは知性にとっては致命的なことである。
レヴィナス老師はかつてこう言われた。
「時間とは私と他者の関係そのものである」
入力から出力までのタイムラグをゼロにすることを求めているものたちは、その欲望を通じて「私と他者の関係」を損なっているのであるが、彼らはそのことに気づいていない。
ミニ講義のあと走って下川先生のお稽古へ。
『羽衣』の謡はワキを謡っていただく長谷川さんとはじめて合わせる。
『高砂』の舞は拍子を間違えて覚えていたので、あわてて修正。
家に飛んで帰る。
夕方から毎日新聞の中野さんが歴史学者の山本尚志さんと奥さまのピアニストの渡辺泉さんをともなって芦屋に来られたので、三宮の Re-set にてご会食。
山本さんは『日本を愛したユダヤ人ピアニストレオ・シロタ』(毎日新聞社)という本を昨年秋に上梓した方である(レオ・シロタは憲法制定にかかわったベアテ・シロタ・ゴードンの父親)。
歴史学と音楽史と両方について深い素養がないと書くことのできない種類の希有の書物である。
どうして中野さんがご紹介の労をとってくれたかというと12月のイス研関西研究例会では私と山本さんの二人が発表者であることが発覚したからである。
なんと山本さんも「あの」イス研の会員であったのである。
イス研といっても椅子研究会ではない。
「日本イスラエル文化研究会」という日本のユダヤ学者を網羅しているコアでディープな学会である。
毎日新聞の奢りというのですっかり「大船に乗った気」になり、シャンペンやワインをばんばん抜きつつ歓談。
靖国問題、レイモン・アロンの思想史的重要性、中国のガバナビリティなど話頭は転々。気が付けば12時を回っていた。
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(2005-08-27 10:04)