霊の件なんだけど

2005-08-24 mercredi

朝日新聞のための原稿を書き上げる。
これは文化欄への寄稿。
さらさらさら。
論題は靖国問題にからめて「服喪の本義について」。
最初はテロリスムと文化的多元主義の話を書くつもりだったが、いつのまに「霊」の話になってしまった。
昨日の朝日の夕刊で加藤周一が「幽霊との対話」という結構のエッセイをかいていたが、やはり季節柄、そういう話がつきづきしいのである。
「霊の話」のいいところは、誰も「霊とはしかじかのものである」と実定的に語ることができないので、「お前は間違っている」という批判が原理的に不可能だということである。
批判されたら「じゃあ、霊連れてきてよ」と言えばいいんだから。
「霊」の本義はなんだろう。
『字通』を開く。
サイズの問題があって(A4サイズで、今体重計で測ったら3.2キロある)手元に置く方は少ないが、『字通』こそはすべての心ある日本人が座右に置くべき書であると思う。
でも、かさばるんだよね。
どこかでCD-ROMにしてくれないだろうか。
フォントがないか。
白川静先生がことあるごとにお使いになる「サイ」(Dを90度回転させたかたちの象形文字で、巫者がもちいる呪具)なんかATOKじゃ出せないし。
『字通』で「霊」を引く。
旧字では「靈」。
上半分は「祝祷の器であるサイ(ほら出た)を列して、雨乞いを祈る意。
下半分は「巫」で、その巫祝をいう。
発生的には雨乞いの呪法に関係があるらしい。
雨は天から降ってくる。
「天の人に命ずるところを令といいまた命という」
だから「霊」は「零」と同音、同義。
「霊空」とは「そら」のこと。
「霊景」とは「日の光」のこと。
「霊府」「霊源」はいずれも「心」のこと。
うーむ。
これは奥が深い。
靖国問題についていくつかの関連書籍を徴したけれど、賛否両論その論ずるところは畢竟するに「正しく祖霊を祀らないと、祟る」ということにゆきつく。
靖国参拝反対派だって、そうなのである。
彼らもまた「正しい」慰霊のあり方を追求していることに変わりはない。
「戦争で死んだ人間のことなんてオレはどうだっていいんだよ。問題は政教分離の原則だ」とか「日本の国益だ」とか「安全保障だ」とかいう非霊的にクールな論者を私は見たことがない。
かりに内心でそう思っていても、そんなことを口にしたら誰もその主張に耳を傾けてくれないということくらいはわかっているからだろう。
靖国問題で日本政府を責め立てている中韓の人々も同じである。
外交的なゲームという側面もあるかもしれないが、彼らには彼らの死者があり、その慰霊の仕方を過つと彼らの国に災いがふりかかると彼らもまた信じている。
だからこそ、彼らは彼らの「死者たちのために/死者代わって」(pour le mort) 声を上げるのである。
「死者の代理人」たちはそれぞれに「正しい慰霊」の方法を「私は知っているが、お前は知らない」と言い立てる。
けれども、死者を安らかに眠らせるためには、どのような服喪の儀礼が「正しい」のかを判定する権利はほんらい死者にしか属さない。
だから、もし、この論争に最終的な決着をつけようとするなら、どこかで「死者」を呼び出す他はない。
けれども生者の都合で死者を眠りから呼び覚ますことほど服喪の儀礼の本旨から遠いことはないだろう。
だから、すこし静かにしませんか。
もし「死者の声」をほんとうに聴きたいと思っているなら。
というようなことを書く。
かつてレヴィナス老師はワルシャワのゲットーで死んだユダヤ人たちを追悼する短い文章にこう書き記した。
私はここに服喪者のあるべき節度を見る。

「私たちはそのことについては今から語る気はありません。たとえ世界の人々が何も知らず、すべてを忘れてしまったとしても。私たちは『受難中の受難』を見世物にしたり、この非人道的な叫び声の記録者や演出家としてささやかな虚名を得ることを自らに禁じています。その叫び声は永遠の時間を貫いて、決して消えないままに残響し続けるのです。その叫び声の中に聞き取れる思考に耳を傾けましょう。」(「神よりもトーラーを愛す」、『困難な自由』)
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