声の呪:月光仮面・大瀧詠一・ブルース・リー

2005-08-23 mardi

TFK2の原稿と『ミーツ』の原稿をぱたぱたと書き上げたら、夏休みっぽい気分になったので、バイクに乗って市営プールへ。
秋風がそろそろ立つ頃の晩夏のプールはがらんとしていて、枯葉が水面に落ちたりして、とてもよい風情である。
夏の終わりに休みを取って海に行ったら台風で降り込められたとか、スキーに行ったらまだ雪が降ってなかったとか・・・そういう「季節をはずした」ときのいたたまれない感じが私はわりと好きである。
人生いつもグッドタイミングというわけにはゆかない。
満を持してロードショーに行ったらそのプログラムは昨日までで今日から「ピカチュウ」だったとか、「あそこ美味いんだぜ」と自慢げに友達を連れて行ったら店が廃業していたとか、そういうことは間々ある。
そういうときのとっさの反応で人の出来不出来は測ることができる。
いちばんよいのは、とりあえず「笑う」ということである。
どのようなトラブルに遭遇しても、とりあえずまず「笑う」。
これは大事なことである。
音声を意味で聴くひとは、音声そのもの持っているフィジカルな現実変成の力を軽んじるが、音声の力を侮ってはいけない。
古代中国には「嘯」という発声法があった。
「うそぶく」と訓じるが、もともとは口笛を吹くような鋭い音だったのではないかといわれている。
これは「破邪顕正」の呪法のひとつである。
「笑い」もそれに同じく、破邪の呪法である。
だから、鞍馬天狗や月光仮面や七色仮面や桃太郎侍や水戸黄門は登場するときには「はははははは」と哄笑したのである。
あれは何かおかしいことがあって笑っているのではない。
その場に漂う邪気を祓うために呪を行っているのである。
「笑う門には福来る」というけれど、厳密には「笑う門からは邪が去る」というのが本筋なのである。
一喝する、哄笑する、長嘯する、真言を唱える、九字を切る・・・これらの音声の現実変成についての信憑を持たない社会集団は存在しない。
このあいだ、大瀧さんと対談したときに、かなりの時間を割いて音楽における「音韻の力」についてご意見を伺った。
鼻音、鼻濁音、裏声、ヨーデルといったさまざまな特殊な発声法が楽曲にどのような効果を及ぼすのか、これは私がひさしく興味を抱いていた主題である。
大瀧さんは東北出身なので、中間母音と鼻濁音では無数のグラデーションを使い分けることができる。
私のみるところ(というか聴くところだな)その大瀧さんが得意なのは「が」の鼻濁音である。
『幸せな結末』は「髪をほどいた君のしぐさが 泣いているようで胸が騒ぐよ」という歌詞で始まるが、この「つかみ」のところで大瀧さんは彼が出すことの出来るもっともセクシーな音韻である「nga」の鼻濁音を二回用いている。
これは「狙ってますよね」という私の質問に「にやり」と笑った大瀧さんは、実はこの歌詞のキモは最初の「ka」の音にあるということを説明してくださった(硬質な音感をもつ「ka」から始まる日本語の楽曲は少ないのだそうである)。
音楽の分析において和音進行や歌詞についての研究は無数にあるが、音声・音韻の持つフィジカルな力に着目したものは少ない。
私はひさしくポップスの魅力の本質は「音声」そのものにあると考えてきた。
それは和音や歌詞はローカルな文化に属するけれど、音韻がもつ現実変成力はある意味で「超歴史的・超空間的」に同一であるような気がするからである。
私が50年代末にはじめてエルヴィス・プレスリーをラジオで聴いたとき、私は英語の歌詞をもちろん一語とて理解できなかったけれど、その「声」はダイレクトに身体にしみこんだ。
エルヴィスの発する音声はほかのどの歌手の出す音とも違っていた。
それは微妙に震動し、動物的な「ぬめり」があった。
私が聴いていたのは、歌詞でもないし、サウンドでもないし、リズムでもなく、「声」そのものだった。
前にも書いたことだけれど、90年の歴史をもつハリウッド映画には興行収入や観客動員数や文化的影響において華々しい記録をもつ無数の映画が存在するが、五大陸のすべてでヒットした映画はひとつしか存在しない。
ニューヨークでも北京でも、ナイロビでもホノルルでも、東京でもイスタンブールでも客が押し寄せた唯一の映画。
人種、宗教、言語、風俗を超えて圧倒的な支持を得た唯一のハリウッド映画、それは『燃えよドラゴン』である。
世界どこでも、映画館を出た若者たちは、そのまま空中に躍り上がって「アッチョー」と絶叫したのである。
ブルース・リーが発したこの「怪鳥音」と呼ばれた音声はあるいは中国古来の呪法の流れを汲むものではないかと私は想像している。
その「音」は観客をおそらくは分子レベルで震撼させたのである。
音は意味よりも深く遠い。
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