甲野先生が来る

2005-08-10 mercredi

H播磨高校の放送部の女子高生3人がやってくる。
ラジオ・ドキュメンタリーを製作しているスタッフの方々である。
いったい私に「なにをきくねん」と私自身もみなさん同様深い困惑のうちにお迎えしたのであるが、とりあえず私にとって「高校生」というのは「潜在的クライアントさま」であるので、私の態度のフレンドリーネス度はそれ以外の場合とは有意な差を示すのである。
うかがえば「人の話を聴けない症候群」というタイトルの私のエッセイが神戸新聞に載って、それを読んで興味をもたれて、さらにいろいろ訊いてそのテーマでのドキュメンタリーに編集する音源を取るべくおいでになったのである。
すでにあちこちで取材されており、それに私のインタビューも加えて「七分間のドキュメンタリー」を作るそうである。
「七分間!?」
七分というと、私の場合、「マクラ」の途中くらいであって、全然本題には入っていない時間帯である。
「あのね、私はひとたび口を開くと90分くらい止まらない人なんですけど・・・」
と申し上げるが、エンジニアの子がにっこり笑って「ちゃんと編集しますから、どんどんしゃべってくださって結構です」
私がどんどんしゃべるとえらいことになるのであるが、まあ、世の中には「そういう人間」もいるということを知るのも若いみなさんにとっては貴重なる人生勉強ともなろうから、委細構わずばりばりと現代人とコミュニケーション失調というテーマで1時間ほどお話する。
三人ともまんまるに目を見開いて、たいへん注意深く私の逸脱につぐ逸脱話をフォローされていた。
遠路のご苦労をねぎらうべく、スタジオ・ベリーニのフルーツゼリーと姫路名物抹茶アイス(毎年姫路のF塚くんがお中元に送ってくれるのである)をごちそうして、ばいばいとお見送りする。

明けて本日は朝一で下川先生のお稽古。
歌仙会はご案内のとおり、仕舞が『高砂』、素謡が『羽衣』。
『羽衣』の天女の声はなんとかさまになってきたが、『高砂』の拍子がうまく合わない。
あとから来られた帯刀さんが『鵜之段』の仕舞を稽古されているときに下川先生に命ぜられての一緒に地謡をつける。
下川先生の側で地謡をするとき、呼吸が合うと、先生の発する振動数にこちらの身体が共振して、グッドバイブレーションである。
ちょうど音叉を鳴らすと、他の音叉も共振して音を出すような感じで、私の身体が(喉ではないよ)振動しはじめるのである。
思わずエヴァリー気分となって、“Take it , Phil”とつぶやきそうになる(もちろんそのような失礼なことはしない)。

稽古の帰りに銀行に寄って「身体認証登録」をする。
私はご存じのようにこのような新しいテクノロジーにはたいへん無防備であり、十日ほど前に銀行に来たときに「手のひらの静脈のかたちで個体識別できるんですよお」と女性行員ににっこり笑いかけられただけで、気が遠くなり「はいはいはい」と手続き書類にぐいぐいサインしてしまったのである。
その新しいカードが届いたので、カードと免許証と印鑑と通帳を手にいそいそと銀行へ行き、窓口で機械を前に神妙に「手かざし」をしていると、急に背中から「ウチダさま!」と声をかけられる。
ふりかえると温顔の紳士がすぱっと名刺を差し出す。
名刺をみると支店長。
「あ、すみません・・・私、何かしちゃいました?」
と青くなるが、別にそういうことではなく、「HPを拝見しております」というご挨拶であった。
「や、それはどうも・・・」とこちらも片づかない挨拶を返すが、よくよく考えると、どうして支店長が私のHPをご覧になっているのか、またどうして必死に「手かざし」の行をしている私を見て、「お、ウチダが来ているな」ということを判別せられたのかがわからない。
あるいは窓口の女の子のカウンターの下に「この顔を見たら内線へ」というようなリストがあって、ひそかにシグナルが送られているのかもしれない。
銀行というのは底の知れないものである(銀行インサイドの人が秘密を知っていたら教えてください)。
さっそくATMで機械が私の静脈を認証してくれることを確認。
画面に「認証しました」という文字が出ると、なんだか偽のIDカードを使ってCIA本部に潜入に成功したスパイのような気分になって、ちょっとうれしくなる。

家にもどって、あたふたと支度をして、大阪のヒルトンホテルへ。
大阪に来られていて、今日の午後帰京される甲野善紀先生から「ちょっと大阪まで出てきませんか?」というお誘いを頂いていたのである。
甲野先生とは朝カル新宿で名越先生とのトークショーのあとにお茶して以来である。
あの後にだいぶ身体を悪くされて、主治医の野口先生から「稽古禁止、読み書き禁止」を言い渡されて、電話もメールも届かない山奥に身を潜めていらした・・・ということを風のたよりにうかがっていたけれども、お会いするとまるで元気そうである(とはいえ、ヒルトンのロビーの入り口で、訝しげな顔つきのホテルマンに「あの・・・どちらへ?」と詮索されていた。袴に高下駄に日本刀持ってでホテルのロビーに入ってくる人なんて、日本広しといえども甲野先生の他にいるはずないんだから、覚えておけばいいのに)。
甲野先生からここしばらくの活躍ぶりをお聞きして、最近の術技上の「気づき」を拝聴しているうちに、やっぱり(守さんが予言したとおり)ヒルトンのロビーで「実技」が始まってしまった・・・
そのまま歓談することあっという間に3時間。
し、しまった。この話を録音しておけばよかった・・・と後悔後に立たず(でしょう、やっぱり「後悔先に立たず」というのは実感と違うよ)。
また大学の方にも来て下さいねーと手を振って大阪駅でお別れする。
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