旅の終わり

2005-08-08 lundi

8日夜、死のロードが終わる。
5日深夜に帰宅して、翌日は昼から稽古、途中で抜け出して野崎家でのヒロ子さんの49日法要に駆けつける。
ひさしぶりに葉柳先生にお会いしたので別れがたく、喪主次郎くんに誘われるまま9時近くまで黒服にネクタイでお酒を飲み続ける。
いささか疲れて、帰宅。
蒸し暑い寝室で輾転反側しているうちに胃痙攣の発作が起きる。
今回は前回よりもだいぶ重症でブスコパン1錠では収まらず、明け方にもう1錠。
ようやく6時頃眠りに就く。
9時半に集合をかけていたので、もうろうと8時半に起きる。
ドクター佐藤とウッキーとともに車で炎天下を丸亀へ。
守さん主催のコヒーレンス合気道講習会である。
1時開始のぎりぎり寸前に多度津の体育館に到着。
20名余のみなさんが私の合気道講習のために集まってくださっており、中には遠く東京や福岡からおいでの方もいるので、あとはウッキーとドクターに任せて私だけ昼寝というわけにもゆかない。
まだ胃にしこりが残っていて、何も食べられないので、清涼飲料だけ流し込んでとりあえず講習会開始。
道衣に着替えると、とりあえず気合いが入ったので、ばりばりお稽古を始める。
しかし、去年もそうだったけれど、多度津のこの体育館の湿度と温度は生物の生存にはあまり適していない。
体操をして呼吸法をして、基本の転換をしているだけで道衣が重くなるほどの汗。
1時間くらいのところで血の気が引いて一瞬気が遠くなる。
武道の講習会で講師が暑さで失神してはネタになってしまう。
冷凍のカルピス・ウォーターをがりがり囓って体温を下げる。
お稽古しているみなさんも汗だくでへろへろである。
それでも何とか3時間の講習会を無事に切り上げる。
やれやれ生きて夕方を迎えることができたと、ほっとして丸亀オークラホテルに荷物を投げ込んで、守さんたちご一行と懇親会の明水亭へ(世界一美味しいカレーうどんのあの明水亭である)。
常連の福岡の小川さんご夫妻、滋賀の水戸さん、謎のヒーラー桑村先生、みどりあたまさん、ゴスペルシンガー木村さんなどなど守さんがネットするところのフレンドリーな畸人のみなさんが集って、明水亭を貸し切りにしての大宴会。
最初はまだ体調がいまいちであったけれど、京都の「たんくま」とパリで修業された明水亭主人の調理するところの和食フルコースのあまりの美味しさに感動し、守さん桑村先生のお話にげらげら笑っているうちに胃の腑も快癒、最後のおうどんまでつるつる食べて、大満足。
守さんとはかれこれ4年ほどのおつきあいになるけれど、守さんが隣にいると、それだけで身体が芯の方からぽかぽかと温かくなってくる。
すべてを差配しているのだけれど、すこしもおしつけがましくなく、その場の全員が参加できるような話題だけをみごとに選択して、つねに座談の中心にいて熱く愉快に語っている。
去年は私はうっかり「守さんを丸亀市長に!」などと視野の狭い提言をしてしまったけれど、できることなら「守さんを日本のお母さんに!」と言いたい気分になった(そんなこと言われても困るだろうけれど)。
ホテルに戻って展望風呂に入って潮風に当たり、部屋に戻って9時半にばったり就寝。
寝たこと寝たこと12時間爆睡。
ひさしぶりに爽快な目覚め。
海辺のテラスで朝のコーヒーなどを飲んでいると、死のロードどころか天国リゾートである。
やあ、ようやく夏休み気分だぜい。
ドクターは前夜電車で帰られたので、残ったウッキーといっしょに守さんにA楽亭にご案内いただく。
A楽亭ご主人ご夫妻とは一年ぶりである。
相変わらずハイテンションでぶっ飛ばすご亭主さまに茶室にご案内いただいて掛け軸などを鑑賞、去年話だけに終わった「鰻重」を堪能。
ううううう美味い!
このA楽亭のマエストロのお作りになる「鰻重」は目に映るすべてのもの、肌にふれるすべてのもの、耳に触れるすべてのものを含めた食環境の総和において、まず我が生涯において食した最高の「鰻重」と申し上げてよろしいであろう。
食というのは味覚だけのものではなく、五感を総動員して味わうものであるという真理をA楽亭ご主人は熟知されているのである。
食の情報やイベント情報はマスメディアに一元的にコントロールされており、情報にキャッチアップしていればアクセスフリーであると信じられているけれど、「ほんとうにすばらしいもの」へのアクセスの敷居は高い。
そのような希少な文化的リソースへのアクセシビリティを担保するのは権力でも財貨でも情報感度でも文化資本の多寡でもない。
グローバリズムというのは、平たく言えば「金で買えないものはない」ということである。
言い換えれば「買われる側には買い手の選択権はない」ということである。
それはある意味でたいへん平等な、開放的な社会を約束しているともいえる。
けれども、「買い手を選択する自由」を決して手ばなさない人々もいる。
そのようなローカルなあるいはプライヴェートな「えりごのみ」を許さないというのが現代の風潮である。
でも、そういうものはあってもいいと思う。
「えりごのみ」を許すということは、「えりごのみ」の対象として査定される立場に身を置くことを受け容れるということである。
さまざまなローカルなあるいはプライヴェートな価値基準があり、ある場所で私は受け容れられ、ある場所では拒否される。
それは「金で買えないものはない」という単純主義よりも私にとってはずっとスリリングである。
BMWで高速道路を疾駆して2時間ほどで芦屋へ。
ひとやすみして杖道のお稽古へ。
酷暑の体育館にちゃんと3人来ている。
またまた汗だくになりながら2時間みっちりお稽古。
家に戻ってお風呂にはいって、バーズを聴きながらワインを飲む。
やっと旅が終わった。
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