甦るPCと児童虐待について

2005-08-02 mardi

壊れていたはずのPCが突然生き返る。
いったいどうなっているのであろう。
でも、生き返ったものに文句をいうのは筋違いである。
うちのパソコンは理由がわからず頓死し、理由がわからず蘇生する。
「ねーなんでなのー」と訊ねてもIT秘書はクールな横顔を崩さぬままに「さあ・・・」とつぶやくだけである。
おそらく私の存在そのものがPCの深部に何か霊的な影響を与えているのであろう。
同僚のある先生のゼミには、その学生が研究室に入ってきただけで、作業中のパソコンが壊れ、その学生が近くに手を置いただけでFDのデータが読み取り不能になる「デストロイヤー」がいたそうである。
おそらく高圧の静電気を発しているデンキウナギみたいな人なのではないかと推察されるのである。

鈴木晶先生の日記を読んでいたら、羨ましい記述があった。
あまりに羨ましいので、そのままコピー。

「やっと夏休みになった。
毎夏同じことを書いているが、50 をすぎても夏休みの過ごし方は小学生時代とほとんど変わらない。
朝起きたら庭のテーブルで軽い朝食をとり、タオルと水着とゴーグルとゴザを自転車のかごに放り込んで、プールにいってひと泳ぎ、家に帰ってかき氷を食べる。あるいはスイカにかぶりつく。そうめんか冷やし中華を食べてからたっぷり昼寝。日が傾いてきたらビールに枝豆(この部分だけが小学生時代とは違う)。夜はビデオをみて寝る。仕事は少ししかやらない。
8月の末まで宿題を放っておく、という点も小学生時代とまったく同じである。」

ううううううらやましい。
タカハシさん、読みました、これ?
お隣さんたら(じゃないんだ、もうタカハシさんは逗子に引っ越しちゃったから)こんな夏休みしているんですよ。
読んだあとに三宅先生のところに治療にバイクででかける。
ああ、帰りにこのままプールにいっちゃおかしらと2秒くらい思うけれど、無理だよなとため息をついて、せめて少しでも日焼けしようとシールドをはねあげて走る。
日に当たるのって、そういえばバイクで三宅先生のところに行くときと洗濯物を干すときだけだ。
あとは電車は駅まで30秒だし、車だとエレベーターまで20秒だから、私は日に当たってないんだ。
ノスフェラトゥじゃないんだけど。
接骨院で森永さんと会う。
こんど、池上先生、三宅先生、それに画伯もまじえて三宮でご飯を食べることになる。
森永さんの「快気祝い」らしい。
画伯と池上先生は初対面である。
森永さんが「四巨頭会談ね」とけらけら笑う。
そういえば、ほんとにこの会食者たちは「頭がでかい」。
ヤマモト画伯は顔も頭も態度もでかい。
三宅先生は身体もでかい分頭もでかい。
池上先生はそんな巨頭かなあ・・・とつぶやいたら、三宅先生が「池上先生は顔がでかいです」と力説する。
私自身はサイズ的にはそれほど巨頭ではないが、態度の大きさが顔の輪郭にあいまいなオーラを賦与している可能性は否定できない。
巨頭といえば、日比谷高校の同期の伝説的秀才、故・新井啓右くんと塩谷安男くんである。
このふたりはモアイ像のように巨大な頭部をしており、「小顔」の橋本せをじくんが雑誌部室の階段からバスケットボールに興じる両巨頭をみつめながら、「いいなあ、あの人達は、あたまでかくて。ぼくなんか、こんな小さな頭だから、あの人たちにはどうせかないっこないんだ・・・」と嘆いていたのを思い出す。
私の頭はなぜそのような役に立たないことだけを選択的に記憶しているのであろうか。

帰宅して、夕方まで『アメリカ論』。
今日は「児童虐待」のところ。
ヨーロッパ文化には「子供をかわいがる」ということは規範化されていないという話を書く。
今日書いたのはこんな話。
フィリップ・アリエスの『子供の誕生』によると、現在の私たちが用いているような意味での「子供」の概念は中世ヨーロッパには存在しておらず、十七世紀にようやく定着した。
ヨーロッパには「子供は無垢で愛すべき存在である」とみなす心性の伝統そのものが存在しなかったのである。
親子関係の葛藤を描いたもっとも古いヨーロッパの文典というと旧約聖書の「イサクの燔祭」である。
ここでアブラハムは一人息子のイサクを生け贄に捧げることを命じられる。
だが、『創世記』のその箇所を読むと、アブラハムが「悩んだ」とか「ためらった」とかいう記述はない。
アブラハムは「全焼のいけにえとしてイサクをわたしに捧げなさい」と言われると、別に期日の指定があったわけでもないのに、いそいそと翌朝早起きしてモリヤの丘までイサクを連れて行く。
そして、イサクとともに祭壇を整えたあと「自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀をとって自分の子をほふろうとした」のである。
モリヤの丘の出来事にかかわる聖書の箇所を読んで驚くのはアブラハムの流れるような手際の良さである。
私たちはアブラハムは主の命に従うべきか親の情に従うべきか、恐るべき葛藤を経験したはずだと考える(キェルケゴオルもそう考えた)。
でも、ほんとうにそんな葛藤があったと言えるのだろうか(だって、何も書いてないんですよ)。
聖書には人間が守るべき戒律が網羅的に列挙されている。
『創世記』にも、『出エジプト記』にも『申命記』にも戒律の長いリストがある。
けれど、そのどこにも「子供に対する親の愛と保護」についての戒律はない。
あまりに当然すぎて書かれなかったのであろうか?
どうも、そのようには思われない。
エリザベート・バダンテールはその『母性という神話』の中で、中世の親子関係が私たちの想像するものとはずいぶん違っていたことを豊富な事例を挙げて教えている(鈴木先生、いい本、訳してくれてありがとうございます)。
中世に教会と国家がそれまで親の子供に対する懲罰権に次第に介入するようになる。
教会は子供は「神からの授かりもの」であるから、両親は子供を私有物のように扱うべきではないと訴えた。
教会が何よりもまず親から奪おうとしたのは「子供を殺す権利」だった。それは、教会の宗教的権威が干渉しなければ、その権利が制限できなかったということである。
バダンテールの示したデータの中でもっとも衝撃的なのは十八世紀末のパリの子育て事情である。
その頃、ブルジョワの家庭では子どもを母親が育てず、乳母を雇うか里子に出すのが流行していた(「この階級の女たちは、子育てのほかにすることがたくさんあると考え、そう公言してはばからなかった」からである)。
子供たちはパリから遠く離れたノルマンディやブルターニュにまで里子に出された。
一七八○年、「首都パリでは、一年間に生まれる二万一千人の子どものうち、母親に育てられるものは千人に満たず、住み込みの乳母に育てられるものは千人である。他の一万九千人は里子に出された」。
その一方で、貧しい家庭では子供の存在そのものがただちに親たちの生存を脅かすものであったから、親たちは手元不如意になると「子供を早く墓地に送る、さまざまな方法」に訴えた。
孤児院に送るかできるだけ安い乳母に預けるか、どちらにしても子供の生存確率は高いものではなかったのである。
だから、ジャン=ジャック・ルソーが『エミール』で「造物主の手から出るときすべてはよい、人間の手のなかですべては悪くなる」という「無垢な子供」という概念を提出したのは、彼の他の著述がそうであったように、まことに革命的なことだったのである。
ヨーロッパで「いたいけな子供を保護しなければならない」ということが「常識」に登録されたのはごく最近のことなのである。
アメリカもそのようなヨーロッパの「子供ってあんまりかわいくないんだよね」の伝統を引き継いでいる。
加えて、建国以来、自己実現の阻害者は暴力をもって排除してよいとする「暴力に対する寛容な伝統」がある。
だから、児童虐待が社会問題化したのがごく最近になってからだということもうなずける。
もちろん、現在のアメリカ国内では児童虐待に対する厳しい反省の上に、児童虐待はきびしい監視を受けている。
しかし、その反省もアメリカのどのような精神風土が児童虐待を生み出してきたのかということについての内在的な分析にまでは踏み込んでいないように思われる。
ジュディス・L・ハーマンの『心的外傷と回復』はPTSDと呼ばれる精神的な障害の主因が「抑圧された記憶」(その多くは幼児期の親によある性的虐待)であるという驚嘆すべき理論を掲げて、九十年代に全世界で圧倒的な支持を受けた。
そして、アメリカではカウンセリングを通じて、「抑圧されていた」幼児期の性的虐待の記憶がフラッシュバックして甦り、成人になった子どもが何十年も前の性的虐待について親を告訴するという事例が相次いで起こったのである。
代表的なのは、自分の父親が自分の友人をレイプして撲殺する現場に立ち会った記憶を抑圧していた女性が、二十年後に不意に記憶が甦り、その証言に基づいて、父親が殺人罪が逮捕告発されたジョージ・フランクリン事件(一九八九年)。
この審理に鑑定人として召喚された「偽造記憶」の専門家E・F・ロフタスは、原告女性が「思い出した」とされる内容がすべてメディアですでに報道されていた情報(誤報も含めて)から構成されていることを論拠として、彼女の言う「抑圧された記憶」なるものが、原告女性がカウンセラーの誘導によって創作した「物語」ではないのかと疑義を呈して、ハーマン理論を批判し、アメリカで一大論争を巻き起こした。
この論争はその後「わが子から偽りの告発を受けた」とする家族たちによる裁判闘争、さらにはいったん「抑圧された記憶が甦った」と証言した女性たちがセラピーを止めたあとに「偽造記憶を植え付けられた」として、今度はかつての担当医やカウンセラーを医療過誤で告訴するという何が何だからわからないような泥仕合の様相を呈している。
児童虐待が事実のレベルで存在したのかどうかは私たちには判定できることではない。しかし、児童虐待が形式的に言えば「親による子供の懲罰権の行使」であるとするなら、抑圧された記憶の回復によるPTSDの解消は「親からの懲罰権の奪還」であると言えるだろう。
つまり、「記憶戦争」と呼ばれたこの論争の真の賭け金は「真実」の開示というよりはむしろ「懲罰権」の帰属だったのである。
「罰する権利はどちらに属するのか?」これがある種の親子関係においてリアルで喫緊な問いであるような社会がどういうものか、私にはうまく想像ができない。
でも、それは「子供はかわいいよねー」ということが人性の自然であるような社会ではないような気がする。
というようなことを書いているうちに夕方になったので走って学校に行って、成績提出。
教務課のみなさんはもう帰り支度をしていたが、しばらく待って頂いてまとめて成績表をお渡しする。
やれやれ。
--------