マックス・ウェーバーはえらい

2005-07-28 jeudi

終日原稿書き。
『街場のアメリカ論』をごりごり書き進んで行く。
テープ起こしの草稿なので、ところどころ「がばっ」と抜けている。
これはMDが録音不良で聴取不能何であったのか、私の思弁が暴走して理解不能であったのか、あるいはM島くんが「つまんないすよ、これ」とばっさり削除されたのか、そのへんの事情はつまびらかにしない。
しかし、いかにも怪しげなマクラだけふってあって、そのあとの本論が「ない」というのは読んでいていささか切ない。
しかたがないので、抜けている箇所を適当に補う。
自分が過去にした話を想像的に補填しているわけである。
「創作」というか「改竄」というか、オリジナルとはかなり違うものになっているはずである。
この話をしている1年前の私と、それを校正している今の私は「同一人物」とは言えないからである。
自分がマクラだけ振っておいて続きが記録されていないセンテンスを書き綴っている「私」の中には1年前の「私」といまの「私」が輻輳している。
自分の書いた原稿のデータを校正する作業はなかなか楽しいけれど、それは推敲して文章を彫琢することが楽しいというのとは少し違う。
そうではなくて、「自分がどうしてこんなことを書いたのかわからない」フレーズに「私のアイデンティティ」の「隙間」のようなもの、「異界」へ通じる隘路のようなものを感知するからである。
村上春樹は長編小説を書いたあと、とんとんと原稿用紙の端をそろえて、また頭から全部書き直すそうである。
それは自分の仕事を「完成させる」ということよりもむしろ、「私は何で『こんなこと』を書いてしまったのだろう?」と思わせるような「私の中から出てきた謎」の跡を追って「見知らぬところ」に出てゆくことの愉悦を求めてではないかと推察されるのである。
自分の書く文章を完全にコントロールして、コンテンツを熟知しているような書き手の書くものは、読む側からすると、たぶんそれほどスリリングではないような気がする。
寝る前に村上春樹の『象の消滅』を読んで、そんなことを思った。
ここに収録されている17編の短編はすべて読んだことのあるものだけれど、編者であるフィスケットジョンのセレクションのセンスがよい。
私自身の村上春樹ベスト短編は「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」と「中国行きのスロウ・ボート」と「午後の最後の芝生」であるが、その三つともちゃんと収録されている。
「四月の・・・」はものすごく身にしみる短編である。
アメリカ人の読者にもよくわかるのであろう。
私自身も街を歩いていて、「あ、いま、あっちから来る女の子がぼくにとっての100%の女の子だ」と電撃的確信を得たことがこれまでの人生に二三度ある。
もちろん確信を得ただけで、そのまま右と左にすれ違ってしまうのだけれど、その女の子とはやはりどこかでその後も「つながっている」ような気がする。
例えば、私の娘とその女の子の子どもが、何十年かあとに、どこかで仲のいい友だちになるとか・・・そういう仕方で。
はじめて会ったのにつよい「既視感」を覚えるひとがときたまいる。それは私自身の記憶にではなく、「誰か」の記憶に由来する既視感であるような気がする。

『アメリカ論』を書いているうちにアレクシス・トックヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』が読みたくなり、読んでいるうちにベンジャミン・フランクリンの『自伝』が読みたくなる。
それを読んでいるうちにマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が読みたくなる。
この「芋づる式読書」が前も書いたけれど夏休みにだけ可能な至福の経験である。
「もしかして、『これ』って、『あれ』かな・・・」という思いつきで取り出した本には、100%の確率で、「鍵」になるアイディアがひそんでいる。
今回、マックス・ウェーバーというのはまことに偉大な人だということをあらためて思い知る(今頃思い知るのもどうかと思うが)。
問題を扱うときの「手つき」がすごく丁寧なのである。
「スキーム」がもう用意してあって、それに合わせてデータを切り取るのではなくて、データの整合性が破綻するかすかな「縫合線」のようなところをたどって、それを説明できるような「スキーム」を浮かび上がらせる・・・という手順をとるのである。
「資本主義の精神」という歴史的概念について、ウェーバーはそれをあらかじめ一義的に確定してから論を進めることを自制する。
そうではなくて、「資本主義の精神」は、それが歴史的連関の中で「有意」に機能しているような局面をひとつひとつ取り出してゆくプロセスを経て、概念的に把握されるというのである。
不思議な論法だ。
「資本主義の精神」というキータームの定義を確定しないまま、「資本主義の精神」が関与している歴史的現象を研究しようというのである。
凡庸な社会学者なら、「一義的に定義されていない概念を用いて、当の概念の定義を満たすというようなバカな話があるか」と一笑に付すかもしれないけれど、さすがウェーバーは社会学の祖だけあって、器が違う。
ほんとうに「そういうもんだ」からだ。
「なんだかよくわかんないけど、だいたいこんな感じ?」というようなキータームがあって、それで「ざっと」現象をスキャンして、「ひっかかったデータ」を吟味してゆき、そのデータに基づいて「何を『ひっかける』ようにこの概念は構造化されていたのか?」という問いに遡及的に答えてゆく。
非論理的に聞こえるかもしれないけれど、私たちが日常的に行っている推論とはまぎれもなく「こういうもの」である。
私たちはコンピュータのやるような「検索」をしているわけではない。
コンピュータの検索は、あらかじめキーワードを正確に入力しておかないと何も探せない。
人間の頭は違う。
「なんだかよくわかんないけど、だいたいこんな感じのもの」というようなアバウトな初期条件の設定でも、ちゃんと「ヒットするもの」にはヒットするのである。
そして、ヒットしたデータにもとづいて、キータームの「だいたいこんな感じ」が精密化されてゆく。
ウェーバーはこう書いている。

「われわれが今とろうとしている観点が、ここで問題としている歴史的現象を分析するための唯一可能な観点であるというのでは決してない。観点を異にするならば、ここでも別のものが『本質的』特徴となってくることは、一切の歴史的現象の場合と同様である。(…) それゆえ、本書において分析し且つ歴史的に究明すべき対象をやはりあらかじめ確定しておくべきであるとするならば、その場合問題となりうることは、それについての概念的な定義ではなく、さしあたりここで資本主義の『精神』とよんでいるものに対するたかだか最少限度の準備的な例示に止まらねばならない。」

すてきな文章である。
この「知性の節度」こそ偉大な学者のすべてに通じるものである。
私が「節度」と呼んでいるのは、ここで「たかだが最少限度の準備的な例示」と呼ばれるデータ(ベンジャミン・フランクリンのテクスト)をマックス・・ウェーバー自身が「どういう基準で選んだのか」を言えないということである。
「どうして、ここに鍵があるとあなたは思えたの?」という問いにウェーバー自身は答えることができない。
「知性の節度」というのは、「どうして私はこんなに賢いのか、自分では説明できない」という不能感のことである。
「どうして私はこんなに賢いのか」について得々と理由を列挙できるような人間はたくさんいるが、それは彼らが「理由が説明できる程度の賢さ(つうか愚かさ)」の水準にいるからである。
ウェーバーとかマルクスとかフロイトとかレヴィ=ストロースのレベルの人々は、「自分はどうしてこんなに頭がいいのかわからない」という「不能の感覚」がリアルに実感されるほどに頭がいい(んだと思う、知らないけど、想像するに)。
「たかだか最少限度の準備的な例示」を選んだときに、ウェーバーには結論までの理路が見通した上でフランクリンを引いているくのだが、「どうして私は結論までの理路が見通せて、そのためにはここで他ならぬフランクリンを引かねばならないということがわかっているのか」については説明することができないのである。
「私にはそれが説明できるが、なぜ『私にはそれが説明できる』のかは説明できない」
世界史的レベルで頭がいい人が抑制の効いた文章を書くようになるのは、この不能感につきまとわれているからである(と思う。なったことがないからわかんないけど)
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