ペドロ・アルモドバルは変

2005-07-27 mercredi

スペイン映画鑑賞週間が続いている。
一昨日が『KIKA』(Pedro Almodovar: Veronique Forque, Peter Coyote,1993)。
昨日が『Talk to her (Hable con ella)』(Pedro Almodovar, Javier Camera, Dario Grandinetti, Leonor Watling, 2002)
どちらもペドロ・アルモドバル監督作品。
変な映画である。
始まってすぐに「あ、変」と思う。
どこか変なのか、うまくいえないけれど、変なの。
その点では小津安二郎やデヴィッド・リンチやジョン・ウォーターズの映画に通じている。
始まった瞬間に何か「不思議なもの」に触れる。
何かが過剰なのだ。
その分、何かが削り落とされている。
その削り方も過剰である。
「説明」的な部分が大胆に削り込まれていて、そうしてつくった隙間に「意味のよくわからない細部」がぎっしり詰め込まれている。
どうしてそういうことになるのよくわからないが、「新春放談」で大瀧詠一&山下達郎が言っていたことをふと思い出した。
ヴォーカリストがミキサーを兼ねると、録音された音源ではヴォーカルの音が小さくなるという話。
なぜかというと、ヴォーカリストは自分で歌っているので、歌詞を全部覚えているから。
ミキシングのときに、ヴォーカルの音がほかの楽器の音に圧倒されて聞こえにくくても、自分の声だからはっきりきこえる。
だからあえてヴォーカルの音を大きくしない。
それに似た感じがする。
アルモドバルはこんなふうに撮っているのではないだろうか?
まず監督自身にも俳優たちにもストーリーがはっきりわかるように映画を撮る。
その中のちょっと面白いディテールをじっくり撮り込む。
編集の段階で、ストーリーや人物関係を説明するため「だけ」のシーンやせりふを消せるだけ消す・・・
すると、こんなふうな細部が異常に細かく描き込まれて、「何が起きているのか」については漠然としていて、よくわからない映画ができる。
でも、それが現実の見え方に一番近いんじゃないだろうか。

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