目を開け

2005-07-22 vendredi

『オープン・ユア・アイズ』(Abre los ojos, by Alejandro Amenabar: Eduardo Noriega, Penelope Cruz, 1997)
『蝶の舌』から始まった「スペインもの」探求の旅(つうほどでもないけど)が続いている。
今回は若手のアレハンドロ・アメナバール(でいいのかな、読み方)くんの話題作(といってもだいぶ前だけど)をチェック。
うーむ、スペイン映画侮りがたり。
革命直後のロシアとか、敗戦後の日本とか、解放後の中国とか、政治的・文化的な抑圧がはじけ飛んだ後に出てくる「娯楽」映画には特有の「勢い」がある。
この時期のスペイン映画にもそれに近いものを感じる。
ペドロ・アルモドバルの『All about my mother』も、60年代のフランス・ヌーヴェル・ヴァーグの最良の作品に通じる娯楽性と冒険心があった。
よい映画に共通するのは自分の映画史的・映画地政学的「立ち位置」についてのはっきりした認識を持っていることである。
自分がどのような「特殊な」映画を選択的に「見せられて」育ってきたのか、どのようなローカルな「映画内的約束事」を「自然」とみなすように訓練されてきたのかについての自覚があるということである。
フィルムメーカーとしての自分の「可動域」について、自分が作れる映画の制限条件について自覚をもっているということである。
そういう自覚を持っているフィルムメーカーは決して「まったく新しいタイプの映画」を作るというようなむなしい野心を持たない。映画による「自己表現」とか、映画をつうじての「メッセージの発信」というような愚かしいことも試みない。
自覚的なフィルムメーカーは映画的「因習」をむしろ過剰に強調することで桎梏を逃れ出ようとする。
伝統的な演出術以上にくどい演出をし、出会い頭に絶世の美男美女が恋に落ち、正義は勝利し、邪悪なものは天罰を受け、錯綜したストーリーラインが最後にすべて説明される「ご都合主義」という形容では収まらないほど好き勝手な話をこしらえる。
しかし、映画的「常識」に過剰に寄り添うことによって、不思議なことだが、彼は「映画という制度」に対する観客の無防備な信頼をむしろ揺るがせることになる。
「映画って、『こういうもん』だったっけ?」
というすわりの悪い疑問が観客の中にすこしだけ芽生える。
でも、観客は無防備だから「『こういうもん』ですってば」とささやかれると、「そ、そうだね」と簡単に信じてしまう。
そのようにして「映画」なるものの棲息可能条件をゆっくりと拡大してゆくこと、それが野心的なフィルムメーカーに共通する手法である。
その意味でアメナバールくんは、たいへん野心的なフィルムメーカーと私は見た。
本作は「あまりにご都合主義的な映画」である。
不条理なまでにご都合主義的なせいで、映画が逆にある種のリアリティを獲得するということがある。
「ありえなさ」が現実の不条理と同程度に不条理だとそういうことが起こる。
ここには「不条理映画」の因習的ファクターがたっぷりと入っている。
アメナバールくんがどんな物語を滋養にして育ってきたのかがよくわかる。
彼のシネアスト・ファヴォリは間違いなく同郷の偉人ルイス・ブニュエルと「不条理映画の巨匠」デヴィッド・リンチである。
会うたびに同じ女が別人になってしまうというのはブニュエルの『欲望の曖昧な対象』。
目が覚めるたびに自分が別人になってしまうというのはリンチの『ロスト・ハイウェイ』と『マルホルド・ドライブ』(そして、主人公セサール君の「壊れた顔」は『エレファント・マン』の造形から)
冷凍睡眠と仮想現実はフィリップ・K・ディックのSFの定番。『マトリックス』もその意味では同系列の物語である。
このスペイン映画はそのあとハリウッドでトム・クルーズ主演でリメイクされた。
「本歌取り」をきちんとしている作品には必ずフォロワーがいる。
これはジャンルを問わずにそうなのである。
自分がどういう檻の中に幽閉されているのかを知っている人間に人はついて行く。
そういう人間だけに「出口」を発見するチャンスが訪れることを知っているからである。
とりあえず、みなさんは『ヴァニラ・スカイ』と二本立てでごらんになってください。
「リメイク」と「本歌取り」はまったく次元の違うものだということがわかります。
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