ユダヤ人問題と変な間取りの家

2005-07-21 jeudi

ようやく「私家版・ユダヤ文化論」を脱稿。
最終回は結局二回にわたって分載することになったのだが、その二回目も数えてみたら50枚も書いてしまった。
これではとても新書には収まりそうもない。
それに最後がコーンとフロイトとレヴィナスとブランショの話なんだから『文學界』の読者もさぞやお困りになるだろう。
それは私にもよくわかる。
困るだろうが、ユダヤ人の話になると、どうしても話を簡単にするわけにはゆかないのである。
ユダヤ人のことを30年間研究してきた私が言うのだから、この点についてはご理解いただきたい。
私の論考は次のような言葉で終わる。
ユダヤ教、ユダヤ人について語ることは、端的にその人が「他者」とどのようにかかわるのかを語ることである。だから、ユダヤ人について客観的に語る言説というものは原理的にありえない。それはこれまで繰り返し書いてきたとおりである。
私たちがユダヤ人について語る言葉から学ぶことのできるのは、語り手がどこで絶句し、どこで理路が破綻し、どこで彼がユダヤ人について語るのを断念するか、ほとんどそれだけなのである。
そう書いて私は「絶句」したのである。
世の中には、「私」の語法をもってしては記述できない種類の思考というものがある。
言葉がそこで立ちつくし、それ以上先にはゆけない境位というものが存在する。
けれども言葉が尽き、思考が「息切れ」するところまで、這うようにしても書かなければならない主題がときにはある。
「書けること」についてはある程度汎用的な語法が存在する。
けれども、「書けないこと」について書くためのレディメイドの語法や「最適の語法」は存在しない。
そのためには自分の肉を削り、骨をたわめ、体液を滴らせて、『悪魔のいけにえ』でレザーフェイスが死体のパーツを組み合わせて手作りした奇怪な家具のような「一点もの」の語法を創り出すしかない。
「なんだよこれ、べとべとして気味わりーな」と言われたって、それしか使えないんだから仕方がない。
というわけで来月号の『文學界』ではウチダの「べとべと言語」による奇々怪々なるユダヤ人論が展開することになる。
どれほど「わかりにくい」話か、一見の価値はあるぞ。

佐藤和歌子『間取りの手帖』(リトルモア、2003)を読む。
「変な間取り」の貸間の間取り図だけを満載した本である。
これを見ると、世の中には変な人がたくさんいるということがよくわかる(こういう部屋を設計する人がいて、その設計図に「オッケー」を出す大家さんがいて、そういう部屋を借りちゃう人がいるんだから)。
一番わからなかったのは洋室15畳の真ん中にトイレとバスがある家。
孤島的なトイレとバスを「取り囲むように」して部屋があるのである。
何を考えてこんな家を設計したのかまったく理解できない。
私がこれまで見た一番変な間取りの家は浅草で見た「居間の真ん中にトイレが出ている家」である。
8畳ほどの居間の真ん中にトイレが「でっぱって」出ているのである。
私がその家に行ったときには居間でみんなが宴会をしていた。
誰かがトイレに行くたびに、豪快な排便の音が居間中に響き渡るのである(だってトイレの壁ってベニヤ一枚なんだもん)。
家の四隅にトイレのためのスペースはいくらもあるのに、どうしてど真ん中に・・・
私はその宴会のときに決してトイレにはゆくまいと念じていたのであるが、冷たいビールをがぶがぶのんでいるうちに腹が痛くなってきた。
冷や汗を流して我慢していたのであるが、限界がきた。
宴たけなわとなり、あちこちで献酬また爆笑というあたりをみはからって、そっとトイレに入った。
だが、あまりに長く排便をこらえていたため、腹圧は限界まで高まり、その排出音は水を流したくらいでどうにかごまかせるような音ではなかった。
私がトイレの扉をあけて居間に出てきたとき、人々は「しーん」として下を向いていた。
以来、私は「変な間取り」の家を警戒すること久しいのである。
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