雪のピレネー越え

2005-07-20 mercredi

『蝶の舌』を見て、内戦時代のスペインのざらっとした空気の感触を思い出した(って、そんな時代のスペインに私がいたわけじゃないんだけれど、『誰がために鐘は鳴る』とか『カタロニア賛歌』とかロルカとか、60年代の終わりころの極左少年は「30年代スペイン」に根拠のない共感を抱いたのである)。
政治的信条をかけて(「共和制か王政か、自由か圧政か」)市民たちが銃を執って立ち上がる・・・という「ラテン的なわかりやすさ」が少年たちの琴線に触れたのかもしれない。
DVD返しついでに「スペインもの」を探す。
そしたら『日曜日には鼠を殺せ』があった。
64年の映画がいまごろDVD化されている。
中学生のころ映画館で予告編を見て「暗そう・・・」と思った記憶だけ残っている。
内戦で敗れた共和派の闘士たちはフランスに亡命し、国境近くの街に蟠踞して、ときどきピレネーを越えてスペインの警察や銀行を襲っていた。
戦士たちはしだいに疲弊し、高齢化するけれど、スペインの政治状況は少しも変わらない。
そんな希望のないゲリラ戦の疲れ切ったリーダー、マヌエルがグレゴリー・ペック。
彼を20年間追い続けている警察署長ヴィニョラスがアンソニー・クィン。
闘争心を失いかけたマヌエルは故郷の街に残してきた母の訃報に接して、埋めてあった銃を掘り起こし、ヴィニョラスと雌雄を決するためにたったひとり雪のピレネーを越える・・・
という話だけ聞くと「けっこう面白そう」なのであるが、実はこの映画はまるでアクション映画ではない。
なかなか腰を上げないマヌエルの逡巡と政治的信条の揺らぎの方が主題なのである。
マヌエルは若い神父(オマー・シャリフ)から「国に戻るな。これは罠だ」という瀕死の母からの伝言を受け取る。
カトリック教会を敵として戦ってきたマヌエルは神父の言葉を信じることができない。
しかし、この若い神父もまた貧窮の育ちで、内戦の犠牲者であることを知るにおよんで、マヌエルの年来の革命的労働者としてのアイデンティティが揺らぎ始める。
私こそが理想的な被抑圧者であり、駆り立てられ、投獄され、拷問され、殺されてきたすべての同志たちの負託を受けた私こそが「正系の復讐者」であり、私のふるう暴力はそれゆえすべて「政治的に正しい」と言い続けてきた老ゲリラが直面する政治的確信の揺れ。
それがこの映画の主題である。
最後の「ピレネー越え」以降の展開は『昭和残侠傳』と説話的には同一であるから、60年代の日本の左翼少年たちの圧倒的支持を得てよかったはずのこの映画が当時彼らにほとんど評価されなかったのは、「革命的暴力は正しいのか?」という答えのない内省に主人公が踏み込み、自殺的なテロによってそれまで自分がふるってきたすべての暴力を「清算」して終わるという物語構成が少年たちには「痛すぎた」のだろう。
よい映画である。
当時はハリウッドでもこのようなレベルの映画を作ることができたのである。
いまハリウッドがリメイクしたら、「ピレネー越え」からあとの銃撃シーンだけで全体の25%くらい使う大冒険活劇にしてしまうであろう。
キャスティングは・・・マヌエルがブルース・ウィリス、ヴィニョラスがミッキー・ローク、神父はアントニオ・バンデラス(ハリウッド版では神父が最後に銃を執って警察官を皆殺しにしてしまうのである。おお、それはそれで、けっこう面白そうかも)
ところでこの題名の『日曜日には鼠を殺せ』というのはいったいどういう由来なのであろう。
原題は Behold the Pale Horse「蒼ざめた馬を見よ」
『ヨハネ黙示録』6章8節の有名な聖句である。
「蒼ざめた馬を見よ。これに乗るものの名は死。黄泉これに従う。」
たぶん60年代には『蒼ざめた馬』といえばサヴィンコフ(五木寛之じゃないよ)ということになっていたので、このタイトルが避けられたというのはわからないでもないのだが、「日曜日には鼠を殺せ」がどういう典拠なのかわからない。
誰か知っていたら教えてください。
(ps:えーと、オリジナル・ヴァージョンでは大きなミスがありましたので、勝手に修正させていただきました。へへへ)

もう一回業務連絡です!
新宿朝日カルチャーセンター
「仏教ってこんなにおもしろい」 釈徹宗 7/30土 15:30〜19:30
会員  5,460円一般  6,510円 学生会員 2,000円
とご案内しておりますけれど、その後「本願寺のフジモトさんに聞いてきました」と窓口で申告すると「大幅な割引料金」が期待されるということになりました(たしかにちょっと高いですよね、6510円というのは)。
というわけで、おでかけのみなさまは「マジックワード」を忘れずに!
以上、業務連絡でした。
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