パブリックドメインの構造主義者

2005-07-19 mardi

淡路島の洲本高校の豊田先生からタマネギをいただく。
日本でいちばん美味しいタマネギらしい。
さっそく今夜はカレー。
生でよし、煮てよし、炒めてよし、揚げてよし・・・ということであるが、私が一番好きな食べ方は「タマネギフライ」である。
美味しいんだよね。
豊田先生、ごちそうさまでした。
もちろん私一人で食べきれる量ではないので三宅先生のところにお裾分けを持って行く。
三宅先生にはもらってばかりなので、たまには贈与をせねば均衡が保てないのであるが、お返しに「特殊酵素」というものを今度下さるそうである。
これも塗ってよし、飲んでよし、目薬にしてよし・・・というたいそう汎用性の高いものなのである。
たのしみだ。

家に帰って『文學界』の原稿をがりがり書いていると電話。
J文書院の編集者のM岡くんという方から。
今日の午後待ち合わせをしていたのである(めずらしくちゃんと覚えていた)。
もちろん私に新規の書き下ろしなどをする余裕はないので、お受けするのは「ありものコンピ」だけである。
J文書院のコンピは「精神分析もの」である。
私の過去6年間のHP日記から分析的なトピックのものだけを選んで一冊を編もうというのである。
これはなかなかユニークな着眼点である。
考え見ると、これまで私は実に多くの「ありものコンピ」本を出しているのである。
『ためらいの倫理学』、『「おじさん」的思考』、『期間限定の思想』、『私の身体は頭がいい』、『女は何を欲望するか』(このメイン原稿は未発表だが、もともと紀要に書くつもりが書きすぎて掲載を断られてしまったのである)、『街場の現代思想』で6冊。
それに現在進行中が文春の『ヤマちゃん撰の《大文字》本』、角川の『雑誌掲載原稿のアンソロジー』。
それに今度のJ文の『分析本』で9冊。
『分析本』には紀要に書いたカミュ論二本も収録する予定。
黄変した紀要の抜き刷りの埃を払ってM岡くんにお渡しする。
こんなものが本になるとはね。
いま書いている『私家版・ユダヤ文化論』には20年前くらいの院生助手時代に書いた反ユダヤ主義研究論文の中身をまとめてつぎ込んだ。
これまで書いた研究論文ほとんどすべてを単行本に拾って頂いたことになる。
「在庫一掃」である。
これらのテクストのほとんどは今でもネット上で読むことができるし、紀要論文は図書館の相互利用を使えば郵送料だけで読むことができる。
いわば「パブリック・ドメイン」に放置してあるものである。
それを単行本にして印税を下さるという。
ほとんど「無からの創造」というか「ゴミで走る」エメット・ブラウン博士のタイムマシンに近いものがある。
不思議なことに、この低コスト高収益ライティングスタイルを実践されている方は同業者の中でもきわめて少数にとどまっている(小田嶋先生の近著『In his own site』はその例外的なものである)。
「データはパブリック・ドメインに放置しておく方が誰にとっても役に立つ」という真理がこのような個別的実践を通じてひろく共有されることを祈念したい。
私にこの「パブリック・ドメイン大切」の教えを伝えて下さったのは敬愛する大瀧詠一師匠である。
師匠の場合はさらに徹底していて、録音した音源をラジオではじゃんじゃん流すけれど、CDには収録しないのである。
聴きたい人間は放送を聞き逃すな、というのである。
自分でお金払ってスタジオ借りて、ミュージシャン集めて、好きな音楽を録音して、それを商品化する気がない。
リアルタイムで聴き逃しても金さえ払えばいつでも同一音源のものが聴けるという視聴者の怠慢を師匠は許されないのである。
この徹底性において、師匠に追尾しえる表現者がいくたりおられるであろう。
私はかつて『ユリイカ』において師匠の『日本ポップス伝』の業績を論じて、「ミシェル・フーコーの系譜学的思考の本邦における唯一の正系の継承者」と評したのであるが、考えてみると「ロラン・バルトのテクスト理論の正系の継承者」でもあったわけである。
さらに考えてみると、「ナイアガラー」という「“虚の中心” としての師匠を敬慕する以外のいかなる功利的ふるまいも許されない弟子たち」を育て上げた点において、「ジャック・ラカンの分析理論の・・・」ということにもなるわけで。
要するに大瀧師匠は「知られざる構造主義者だった」ということに帰着するのである。
思えば「リーヴァイスを穿いてレヴィ=ストロースを読もう」とつぶやきながら故・久保山裕司君が聴かせてくれたCSN&Yの『デジャヴ』に感激してニール・ヤングの『After the goldrush』へ、さらに Buffalo Springfield へと遡航して、はっぴいえんどに出会った私の音楽遍歴の全体が構造主義者たちと大瀧詠一との糾える縄のような宿縁を下書きしていたのであった。
長く生きていないと判らないことというのはまことにたくさんあるものだ。
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