マイクロスプリットな夏休み

2005-07-19 mardi

夏休み三日目。
ほんとは試験期間なので、まだ夏休みじゃないんだけれど、気分はもう夏休みである。
どこにも行かなくてよい、誰にも会わなくていい、ということになると何が起こるかというと「時計を見なくなる」のである。
原稿を書いているとき、本を読んでいるとき、ふだんは絶えず時計を見ている。
「おっと、もう30分しかねえや」とか「いけね、1時間もこんな本読み耽っちゃったよ」と「おっと」「いけねえ」の類の間投詞ばかり口にしている。
それが夏休みだと時計を見ないでよいのである。
昨日は届いた『身体の言い分』(池上六朗先生との対談本、毎日新聞社、1500円、7月23日に店頭に配架予定)を読み出したら、あまりに面白くてそのまま最後まで一気読み。
装幀はいつもの山本画伯。
じつに美しい色の本である。ぜひ手にとってください。
笑っちゃうのは冒頭いきなり、池上先生が「話が噛み合わない人っていますよね」というネタをふるんだけれど、それを承けた私が「そうなんですよ、先生! 自分のことばかり話して人の話聞かないやつって最悪っすよね」と言いながら、ぜんぜん違う話題にひっぱっていって、自分のことばかり話すところ。
これ中野さんぜったい「意地悪」で編集してるな。
全部で4,5回対談していたものを中野さんはそれを順序入れ替えているのだが、「最初はえらそうに演説しているウチダが、だんだん池上ペースに巻き込まれて、最後は(笑)と(爆笑)で受けるだけになる」という構成にしつらえている。
この「最初はがんばって話についてゆくんだけれど、いつのまにか池上ペース」というのは考えてみると、毎回どのセッションでも同じだったような気がする。
とにかく池上先生の話が面白いから、みなさん買ってくださいね。

それから『文學界』の「私家版・ユダヤ文化論」の続きを書く。
最終回なんだけれど、なかなか終わらない。またやたら長いものになりそうである。
サルトルのユダヤ人論の破綻のあとをたどってから、ノーマン・コーンの Warrant for genocide, 1966 から削除された最終章「《プロトコル》と集団精神病理学」の内容を要約する。
これは「ユダヤ人はなぜ憎まれるか」についての驚嘆すべき仮説なのであるが、おそらくはユダヤ人社会からの猛然たる抗議のせいで、私が読んだ81年の第三版では削除されている(私は67年の初版の仏語訳で読んだ)。
ぱらぱら読んではフロイトに寄り道し、ドレフュス事件のことを調べ、ヘルツルの『ユダヤ人国家』を取り出し、ベルナール=ラザールのユダヤ・ナショナリズム論を読み返し・・・という作業を時間を忘れてやっている。
この「時間を忘れて」というところが研究の愉悦である。
「あれ、もしかして、『これ』って『あれ』のこと?」
というブリコラージュ的連想が次々と働くときは家の中をうろうろして、あちこちの本棚から本を取り出して、そのまま床に座り込んで読み始め、またそこから違う本棚へ・・・ということが繰り返され、そのうちふと顔を上げると窓の外はとっぷり日が暮れているのである。
これができるのは夏休みだけである。
博士課程のときと助手の頃は、ほとんど毎日こうだったけど。
今は一年にほんとに2,3ヶ月しかこういう時間がない。

夜はひさしぶりにトンカツを揚げる。
こんな手の込んだ料理をつくるのも久しぶりである。
「時計をみながら」の暮らしではトンカツも作る気にならないのである。
ご飯を食べてから、ワインをのみながら『蝶の舌』を見る。
1936年のスペインを舞台にした映画である。
共和制が瓦解し、フランコ将軍たちによる軍事クーデタで内戦が始まる直前の不安な時代の地方都市の一年を子どもの眼から描いた映画である。
敬愛する先生が共和派の活動家として王党派のクーデタ勢力に逮捕されてトラックで連れ去られるのを見送る主人公のモンチョ少年が、自己保身のために「アテオ(無神論者)! 赤! 人殺し! 盗人!」と叫ぶのに唱和する場面のストップモーションが痛切で美しい。
ヨーロッパ映画って、こういうところがほんとうに残酷なまでにリアルである。
ヨーロッパ映画は「子どもの純真」や「小市民の善意」を決して簡単には許さない。
子どもは無垢なほど邪悪であり、小市民は平気で人を殺す。
日常生活の中のファシズムという同じテーマを扱った映画はフランスにもイタリアにもある。
けれども、『リュシアンの青春』も『アマルコルド』も『蝶の舌』よりは明るい。
それはフランスでもイタリアでも、その映画の舞台になった時代の数年後には戦争が終わり、自由が戻ってくるからだ。
スペインはこのあと1975年にフランコが死ぬまで強権的な独裁体制が40年間続く。
だから先生は死ぬまで名誉回復することがないし、モンチョ少年にも自分の少年の日の忘恩のふるまいを謝罪するチャンスは決して訪れなかったはずなのである。
その時間の長さが重い。

歯を磨きながら篠田鉱造の『明治百話』を読んでいたら、面白い話が出ていた。
首斬朝右衛門こと八代山田朝右衛門吉亮は明治14年刑法で斬首刑が廃止されるまで生涯に300余人の処刑を行った。
斬首は三人の人足が死刑囚の手足を押さえているところを斬るのである。
死刑囚が興奮したり、恐怖心をもって動き回ると人足の方を斬ってしまう。
だから、斬る方は遠くの方で知らん顔をしていて、用意が調うとすたすたとそばにいって、一声かけて、いきなりすぱりと斬ってしまうのだそうである。
そのときに涅槃教を心の内で読む。
朝右衛門いわく。

「第一柄に手をかけ、右手の人差し指を下ろす時『諸行無常』、中指を下ろす時『是生滅法』、無名指を下ろす時『生滅滅已』、小指を下ろすが早いか『寂滅為楽』という途端に首が落ちるんです。」

素人の方はすらすら読んでしまうだろうけれど、すごいことである。
抜刀から斬首まで一呼吸の行程を四つに切り、さらにその四分の一行程を四字に下位分節しているのである。
ふつうの遣い手なら刀を上段にかざして振り始めたら、あとは「一直線」のフリーフォールである。
朝右衛門は刀が動き出す「諸」から首が落ちる手前まで16文字目の「楽」まで行程を刻んでいる。
私はこれを読んで佐々木正人の『ダーウィン的思考』(岩波書店、2005)の中にあった「マイクロスプリット」という概念を思い出した。
すぐれたアスリートの条件は運動の軌道決定をどこまで遅延させることができるかだと佐々木さんは書いている。

「『運動』が洗練されればされるほど、それが球や地面などの環境に接触する、その先端部分は分岐の可能性を潜在させるようになる。環境とどのように触れるのかという決定を、どこまで遅らせることができるのか、ということをあらゆるスポーツで身体は追求している。」(11頁)

朝右衛門にとって「環境」は「首」である。
おそらく朝右衛門の剣の刃は首に触れる最後の数十分の一秒まで、最適の切り口を探して「揺れて」いるのである。
マイクロスプリットの例で面白いのは、相撲の「股割り」である。
これは相撲の世界における理不尽な稽古法の代表とされているが、これは単なる柔軟性の獲得をめざすものではないらしい。
大相撲の世界では、投げを打ち合って同体で落ちたときには「身体の柔らかい者の方が『遅く落ちる』という逸話が信じられている。力士は、顔の土俵への衝突を手で防御しない。したがって組み合って落下するとき、どちらの力士の顔が先に地面に付くのかが勝敗を分ける。だから『遅く落ちる』柔らかい身体を持つ方が勝つというわけである。」(12頁)
つまり柔らかい身体をもつ力士は落下しながらも着地の直前まで細かく身体を震わせつつ「最適ライン」を探している。
そのわずかな空気抵抗が着地時間に有意な差をもたらすのである。
そうしたらふと気がついたことがある。
花田家は「お兄ちゃん」の方がワイドショーを見ている限り、弟よりも「遅く落ちる」身体能力が高そうですね。
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