教授会で学んだ二三のことがら

2005-07-16 samedi

どういうわけだが、原稿依頼に加えて、講演の依頼がどんどん来る。
最初はずいぶん先の話だからというので、なんとなく「いいですよ」と引き受けていたのであるが、どんどん増えてきて、ダイヤリーを開くと夏休み中のどの頁を開いても「締め切り」と「講演」という文字ばかり並んでいる。
なんだよ、これじゃぜんぜん「夏休み」じゃないじゃないか!
そんなに働いてどうするのかね?
もっと体をいたわりたまえよ。若くはないんだしさ。
墓に金は持っていけんぞ。
おっしゃるとおりである。
私だってみなさま以上にウチダの生き方には懐疑的なのである。
そんなに働いていどうするのだとみなさまともども問いかけたい気分でいっぱいである。
この四月からあと私がどれくらい稼いだのか計算したことがないからわからないが、ときどき思いついてネットバンキングで「残高照会」をすると、そのたびに数字がじわじわ増えている。
そりゃまあ、そうもなりますわね。
ただ仕事するだけで、学校に行く以外には家から一歩も出ないんだから。
食べてるのは、ヨーグルトとトマトとどら焼きとサッポロ一番みそラーメンくらいで、ユニクロにパンツ買いに行く暇もないんだから。
なんとか生きて夏休みを迎えることだけが悲願のそんなウチダのもとに、情容赦なく原稿依頼と講演依頼がやってくる。
断れるものならお断りしたい。
しかし、「愛読者なんです」という編集者や主催者のおことばを聞き、「ブログ読んでますんで、死ぬほどお忙しいのはわかってるんですけど…」とまで言われると、「そう、忙しいんですよ、はい。ではさいなら」というような木で鼻をくくったような対応はどうしてもできないのである(ウチダは多くの証言が語るように「意外といい人」なのである)。
それにこういうのには「判断停止の閾値」とでもいうべきものがある。
「一週間に2回講演やるなら、3回やっても同じようなものか」とか「どうせ週末までに40枚書かなきゃいけないなら、あと5枚くらい増えても同じか」といった「どうせ….なら、同じか」論法は、仕事の絶対量がある一線を超えてしまうと、不思議な説得力を持つようになる。
9月9日にはK川大学の付属病院で講演をすることになっている(なぜ大学付属病院の看護士のみなさんがウチダの話を聞きたいのかは不明)。
その前日の8日に大阪の皮膚科の先生たちの集まりで講演をお願いされた(なぜ大阪の皮膚科医のみなさんが・・・以下同文)。
二日連続というのが、医療ネタの講演を一度やるのも二度やるのも「どうせ同じようなものでは」という「判断停止の閾値」に触れたらしく、私の指は夢遊病者のように「やります」というご返事メールを叩いていたのである。
そんなわけで、私の夏休みはすでに「休み」というよりはむしろ「労働強化期間」の様相を呈しつつある。

教授会で教員評価システムについて二度目の議論。
今回で承認を取り付けるはずであったが、予想外の反対意見の多さに、2時間を超す議論の末に、「教員評価を導入する」という原則の確認をしただけで終わる。
数値的評価の導入に教員がどうしてこれほど反対するのか、私には実はこれまでよく理解できていなかったのであるが、今回ご意見を拝聴して深く自得するところがあった。
多くの方が「教育研究学務活動が点数化されたら、みんなやるべき仕事ややりたい仕事を放棄しても、点数が高くなる仕事をするようになるのでは」という危惧を述べておられたからである。
私は正直言って、点数(どう運用するかさえ決まっていないから、それまではただの「数字」である)をつけると言われたとたんに、「点数点数」とあたふたするような見識の低い人間は本学の同僚にはいないだろうという前提で話を進めていたのである。
人の話は聞いてみるものである。
なるほど、考えてみたら、大学教員というのはもとをただせば「受験優等生」なのである。
「点数」と聞いただけで身がこわばり、思考停止に陥り、点数への気遣いに居着いてしまうというのは、考えてみれば、たいへん蓋然性の高い展開だったのである。
私が「点数はただの点数です」といくら説明しても、「そんなこと言っても点数つけられたら、点数は〈一人歩き〉します」と真顔で切り返される。
だが、点数は「一人歩き」なんかしない(点数にそんな芸当はできない)。
点数は「一人歩きさせられる」のである。
点数に生命を吹き込むのは、点数とは世界の条理と個人の宿命が書き込まれている魔法の呪符だと信じている「点数物神」の信奉者たちである。
私は点数というのは「それを利用して何かするもの」だと思っていたが、点数物神を信奉する人々にとって、点数とは「それに利用されて、何か(意味のわからないこと、例えば受験勉強のようなことを)させられるもの」だったのである。
現代日本人をかくも深く蝕んでいる受験生エートスに思い至らなかったことをウチダは一生の不明としなければならない。
であるから、せっかく教員評価システムの導入は決まったわけだが、評価の数値化にはご同意いただけない風向きである。
「教員評価」とはいいながら、いかなる「評価」も含まない「生データの羅列」の開示というあたりが「落としどころ」になるのかもしれない。
「評価フリーの生データだけなら公開してもいい」ということにご同意頂けるなら、それなら一歩前進ではある。
だが、いかなる定量的・定性的評価も含まない、まったく中立的な「生データ」(論文数、担当クラス数、学内役職名など)を列挙したファイルを開示して、相互に評価していただくという場合、みなさんは「何」を比較考量されるのであろうか。
おそらく研究業績のある教員の業績リストは分厚いものになり、ない教員のものはぺらぺらになる。あれこれたくさん仕事をしている人の活動報告書は文字や数字がぎっしり書いてあり、そうでないひとのものは白っぽくなる。
コンテンツについての定性的評価を差し控えた場合、そのファイルを読む人間に許される比較考量はごくごく限定的なものにならざるをえない。
たぶん「おお、先生すごいですね。研究業績表が50行もあるじゃないですか! 地域貢献活動リストもぎっしり真っ黒ですね」というようなコメントがなされることになるだろう。
だが、そのようにして、大学人の業績が「行数」や「明度」といったきわめてアバウトな「定量的」指標で評価されることが「数値化」に断固反対された方々のほんとうに望んでいることなのだろうか?
私にはそのようには思われない。
ならば結局、教員の業績についての評価を許すようないかなる情報も開示しないというところに結論は導かれるのであろうか?
そういえば、昨日、教員評価は個人情報の開示であり、個人情報保護法に抵触するからすべきではないという衝撃的な発言を拝聴した。
教員が大学で何をしているのかは個人情報なので開示されてはならないということのようである。
寡聞にして個人情報保護というのがそういうものとは知らなかった。
まことに学ぶことの多い教授会であった。
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