抹茶アイスと餃子

2005-07-09 samedi

咽喉鼻腔の粘膜の炎症がようやくおさまってきた。
久しぶりに合気道のお稽古にでかける。
雨だし湿気がひどいし大学はもうすぐ定期試験なので、人の集まりがよろしくない。
こちらもまだ風邪気味なので、あまり体の切れがよくない。
稽古のプログラムも次々とアイディアが浮かんで・・・というふうにはならない。
むずかしいものである。
総合的な心身のバランスが取れていないと原稿も進まないし、合気道もうまくゆかない。
それでも2時間半ほど動き回っているうちに油が回ってきて、少し調子が出てくる。
稽古を終えて熱いシャワーを浴びて、詰まった鼻水をチンと手洟で飛ばしたら脳の前の方に少しだけスペースが空いた。

帰り道に相談を受ける。
思いあまって他人の意見を聞くほどに困った問題というのは、たいてい本人の努力では解決できない種類のトラブルファクターを含んでいる。
そこにいない誰かに何か特別なことをしてもらわないと解決しない種類のトラブルだからこその相談ごとなのである。
そのような錯綜した問題については「たいへんだね」と同情する以外にあまりはかばかしいお答えができない。
大筋で正しい方向に向かって歩いているなら、多少の紆余曲折はあっても、最終的には「行きたい方向」に向かうことができるというのが私の経験的な確信である。
自分が歩いている方向が「大筋で正しい方向」であるかどうか、その判断に自信があれば、他人から何を言われようと、どんな批判を受けようと、一時的な「向かい風」のようなもので、たいして気にはならない。
他人の批判が「ぐさり」と来るのは、自分の歩いている方位の正しさに自信がないときである。
他者からの批判に自分自身がどこかで同意しているからこそ「ぐさり」と来るのである。
そういうとき私は無理をしないで、一回立ち止まって、方向転換を試みるようにしている。
空を見上げて風のにおいをかぎながら、「どっちへ行けばいいんだろう」としばらくぼんやりしていると、「とりあえず、こっちか」というような感じで足が前に出る。
トラブルに巻き込まれているときというのは、端的に言えば、「頭がうまく働いていない」ときである。
そういうときに「うまく働いていない頭」にさらにものを考えさせてもろくなことにはならない。
頭にはしばらくご休息いただいて、細胞レベルで「ゆきたい方向」を探り当てるしかない。
細胞レベルでの感知力が落ちているときには何もしないでじっとして、細胞が再生するのを待つ。
抹茶アイスを食べながら不得要領なアドバイスをして、家に戻って、静かに餃子を作成して、冷たいビールといっしょにつるつる食べる。
ようやく「食べたいもの」の輪郭が少しだけはっきりしてきた。
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