想像の力

2005-07-08 vendredi

合気道の授業とクラブを休んで早めに家に戻って、PL顆粒を飲んで4時にふとんにもぐり込む。
べっとり汗をかいて8時過ぎに目覚める。
昼食を食べていないのに腹がへらない。
とりあえず食べて、メールをチェックして、ブログを更新して(風邪を引いていてもちゃんとブログ日記だけは更新する)、薬を飲んで、また寝る。
目が覚めると朝の9時。
なんとなく「峠を越した」という感じがする。
まだ微熱があるし、のども節々も痛むのだが、「悪い方に向かっている」のではなく「快方に向かっている」という感じがする(希望的観測)。
『文學界』の締め切りまでまだ2週間あるから、今週末はまだ休めそうである。

1年生の基礎ゼミのレポートに「10年後の私」という課題で「空想」を書いて頂いた。
女子学生の空想を侮ってはいけない。
時代の価値観の変化にもっとも敏感に反応するのは、この年齢層の女性たちである。
18枚のレポートのうち、10年後に「独身」というのは二人。
夫はだいたい「ふつうのサラリーマン」で、郊外に住み、子供が二人。
半数が専業主婦。
恋愛や結婚の詳細について空想をした人はごくわずかで、レポートの大半は「子育て」において配慮すべきことは何かという論点に割かれていた。
何はともあれ、想像力を駆使することはたいせつである。
繰り返し申し上げているように、その細部まで想像された未来は、想像されていない未来よりも実現される可能性が高い。
輪郭のくっきりした未来像には私たちをそこへ引きつける「牽引力」がたしかにある。
妄想と想像は違う。
妄想というのは「記号的なもの」である。
想像というのは「具体的なもの」である。
「宇宙人が私を監視している」という妄想を持つ人にとって「宇宙人」はほとんど「宇宙人」という「文字」にまで縮減されている。
妄想には「具体的な細部」がない。
具体的な細部は、私たちが「その名前を知らないもの」や「それが何の機能を果たしているのかわからないもの」まで含んでいる。
真に奔放な想像力は、「私がその名を知らないもの」をその細部にわたって画像のうちに取り込むようなことができる。
いまだ来たらぬ「私の結婚生活」を想像をするときに、「想像上の夫」の「歯の磨き方」とか「シャツの着方」とか「トイレの中の置き本の並べ順」とか、そういうどうでもいい細部をありありと想像しうるのは良質な想像力である。
逆に、「想像上の夫」は「身長175センチ以上で、織田裕二似で」、新居は「首都圏から30分以内のベッドタウン」に「建築費3000万円の白塗りの家」・・・というふうに徹底的に記号的な想像しかできない人(つまり、自分の想像したものを「ことばで全部言い換えられる人」)は想像力の具体性において貧しい。
具体的な想像力は「強い想像力」であり、記号的な想像力は「弱い想像力」である。
強い想像力は現実変成の力を持っている。
前に「宮崎駿のアニメは映っていないところも描き込んである」と書いたことがある。
映っていないところは画面には映らない(当たり前だね)。
でも、映っていないものを描き込むような過剰な想像力だけが画像に独特の厚みと深みを賦与することができる。
そのような想像力だけが現実変成の力を持っている。
それは強い想像力を持っている人には「100%想像した通りの未来」が訪れるということではない。
そうではなくて、強い想像力を持った人はあまりに多くのディテールを深く具体的に想像してきたので、訪れるどのような未来のうちにも、「ぴったり想像した通り」の断片を発見してしまう、ということなのである。
その発見はひとにある種の「既視感」をもたらす。
「既視感」とは「宿命」の重要な構成要素である。
だから、想像力の豊かな人は、どのような人生を選んだ場合でも、そこに「宿命の刻印」を感知する。
自分がいまいるこの場所が「宿命が私をそこに導いたほかならぬその場所」であり、自分のかたわらにいる人が「宿命が私をそのかたわらに導いたほかならぬその人」であると信じてしまう。
そういう人は幸福である。
想像力が豊かな人は、だから構造的に幸福な人なのである。
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